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研究批評critic

有島武郎と『星座」 論

一八九九年の有島武郎の方へ
       ―『星座』の街・札幌を歩く

 有島武郎(ありしま・たけお 一八七八〜一九二三)の『星座』(叢文閣、一九二二年)は札幌を舞台にした未完の小説である。物語の設定は若干の曖昧さを残しているが、一八九九年(明治三二年)となっている。本稿は有島が生き、作品に描いた一八九九年の札幌の街へと漸近する試みである。

 有島武郎の札幌在住の時期は一八九六年(明治二八年)から一九〇一年(明治三四年)までと、一九〇八年(明治四一年)から一九一五年(大正四年)までの前後十二年に及ぶ。学生と教師との違いはあるが、いずれも札幌農学校(東北帝国大学)の縁であった。「私の生活としては一番大事と思われる時期」を過ごし、「それだから私の生活は北海道に於ける自然や生活から影響された点が中々多いに違いないということを思うのだ」と、エッセー「北海道に就いての印象」で記している。北海道と言っても、「主に私の心の対象となるのは住み慣れた札幌とその附近だ」とも書いているように、有島にとっては感受性豊かな時期を過ごした札幌への思いがとりわけ深かった。
 有島武郎の来道前後の札幌農学校と北海道の出来事を瞥見しておこう。明治維新により、一八六九年(明治二年)七月に開拓使が設置され、八月に太政官令で蝦夷地は北海道と名づけられ、箱館戦争の余燼くすぶる中、国家的開拓は本格化する。人材育成を目的に七二年に東京に設置されていた開拓使仮学校は、七六年夏にウィリアム・クラークが來札するとともに、札幌農学校として開校する。校舎は大通公園から少し北に寄った北一―二条、西一―二丁目(以降、条丁は略す)。七七年には新渡戸稲造が二期生として入校している。七八年になると演武場(現在の時計台)も完成している。新渡戸は九一年に米国から戻って札幌農学校教授となり、九四年に恵まれない若者のための遠友夜学校を豊平橋近く(南四東四)に開設する。国木田独歩が来道し、空知川の壮厳な自然に触れる一方、新渡戸を訪ねたのもこのころだ。
 有島武郎は一八九六年九月に札幌農学校予科五年生に編入学となり、北海道の人となる。寄宿先は新渡戸の官舎(北三西一)。農学校の北隣であった。有島の父・武は後志の真狩太の原野を九七年に借り受けている。札幌農学校校舎は九九年から札幌北部の農場への移転計画が進んでおり、この設計のために来ていた建築家の父・中條精一郎に伴われて幼い宮本百合子も暮らしていた。
 一八七二年(明治四年)に六百人余であった札幌の人口は『星座』のころには三万七千人を超えていた。市街は札幌区と呼ばれ、現在の札幌市の中心部を形成する南の山鼻、西の円山、東の白石、豊平、平岸、北の苗穂などもまだ独立した村であった。大通公園を中心にして、北側に官庁街、南側に商業地、北東に工業地、南東に中細民居住地が広がっている東西にやや長い格子状の人工都市が有島の暮らした札幌の風景と言える。
 この札幌に画然たる線を引いているのは大通公園と創成川である。いずれも人為的に、一つは五十間(九〇b)に及ぶ防火線として、もう一つは用水物流のために船の航行できる一種の運河として構築された。
 「光の都市 闇の都市」(青土社、一九八一)に代表される栗本慎一郎の都市論を援用すれば、大通以北・創成川以西はたとえて言えば「光の都市」(政治の中心地=王城の地=武家屋敷または貴族居住地)であり、創成川以東と大通以南は「闇の都市」(商業の中心地=王陵の地=ストレンジャーの居住地)である。
 この札幌の「光の都市」中心部には道庁があり裁判所があり、その人材育成センターたる札幌農学校がある。一方、「闇の都市」の周縁には、他界への入口たる寺町(東部に札幌神社遙拝所、北海寺、南部には豊川稲荷、中央寺、新善光寺、西部には本願寺札幌別院、円山村には札幌神社)が連なる。北東部は工業地である。勧工場や演芸場を過ぎると「悪所」たる遊廓の薄野(南四―南五、西三―四の二町四方)も寺院に隣接して形成されている。
 『星座』の物語世界である一八九九年当時、有島武郎はまだ新渡戸稲造の官舎(北三西一)におり、そこから隣の札幌時計台・札幌農学校(北一西二)へと通っていた。ところが『星座』では、主人公の青年たち(星野、園、柿江、西山、渡瀬、人見)は札幌農学校の寄宿舎である「白官舎」(南二西六)に暮らしている。
 「白官舎はその市街の中央近いとある街路の曲り角にあった。開拓使時分に下級官吏の住居として建てられた四戸の棟割長屋ではあるが、亜米利加風の規模と豊富だった木材とがその長屋を巌丈な丈け高い南京下見の二階家に仕立てあげた。そしてそれが舶来の白ペンキで塗り上げられた。その後にできた掘立小屋のような柾葺き家根の上にその建物は高々と聳えている」
比喩的に言えば、同じように掘立小屋のような町屋街の中に敢然と聳える白亜のアメリカが「白官舎」なのである。しかもこの「白官舎」は道庁から大通を挟み、ほぼ同じような位相に存在している。この「光の都市」のサテライト(人工衛星)から、星間遊泳をするかのように、若者たちが「光の都市」と「闇の都市」を巡廻し、それぞれに人間として成長していくというのが、有島武郎の『星座』の世界なのではなかろうか。
 あるいはこうも言える。白官舎は「『白く塗られたる墓』という言葉が聖書にある……あれだ」とも書かれている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいであるという場所から、見た目には俗的で貧しく猥雑な世界に存在する高貴な魂に触れようとする精神の旅とも言える。いみじくも、空想家の柿江は「高所は札幌の片隅にもある、大所は女郎屋の廻し部屋にもある」と理想主義の空論を批判する。
 物語では、星野や園、渡瀬らは三隅ぬいの家に行き、柿江は夜学校へ行く。渡瀬は実業家である新井田氏宅で奥さんと酒を飲み、渡瀬と柿江は薄野遊郭で女性を覚える。これらの場所はいずれも「闇の都市」にある。
 白官舎から札幌農学校までは一キロ足らず、農学校から夜学校までも一キロほど、夜学校から薄野まで七百b、薄野から白官舎まで五百bほどという極めて狭い世界であるが、そこに一種の見えない位相差があった。
 紙幅の関係から本稿では二つのエピソードを拾う。主人公のひとり、園は「光の都市」の札幌農学校の時計台に登り、シラーの詩を読み、真理の力を自覚する。そして、大通公園に出て、おぬいの家を訪ねていく。
 「おぬいさんの家の界隈は貧民区といわれる所だった。それゆえ夕方は昼間にひきかえて騒々しいまでに賑やかだった。音と声とが鋭角をなしてとげとげしく空気を劈いて響き交わした。その騒音をくぐりぬけて鐘の音が五つ冴え冴えと園の耳もとに伝わってきた」
 おぬいの家は創成川を渡って東側、現在は若者向けの店舗も増えた「創成東地区」である。だが、当時この地区は新渡戸稲造が創設し、有島武郎が深くかかわった「遠友夜学校」(南四東四)が実際にあり、栗本の言う「ストレンジャー」の多く居住する細民街であった。
 札幌の台所とも言われる二条市場ができたのは『星座』の物語と重なる一八九九年ころである。「創成川を行き交う搬送船の荷の積み降ろしを行う人々を相手に、川沿いに魚や日用品を並べて商売する者が増えはじめ、やがて市の形態が整っていった」と言われ、今は高齢者ホームへと姿を変えてしまった「兼正旅館」は石狩方面からやって来る馬宿の一つであった。
 創成川からいくつかの寺社街を過ぎて豊平川に近づくにつれて風景は変わる。市街と郡部を東西に分かつ豊平川には一八五五年(安政四年)に官設渡船が置かれていたが、その後、明治に入ってからは橋をかけては流されるという時期が続く。九八年に初代鉄橋が完成するが、やはりたびたび洪水に襲われている。
 暴れ川に近く、水はけの悪い土地は葦原が残り、衛生的にも良くなかった。結果的にその後長い期間、貧しい人々が多く暮らす地域となったのである。「お末の死」(一九一四年)でも、有島武郎は死に日常を侵食されてしまう人々の苛酷な運命に目を向けている。遠友夜学校で体感した貧しさゆえに生きることに追われる庶民の現実はキリスト教的ヒューマニズムと社会主義思想への関心も相俟って、有島にとっては幾度も自らの特権性を見直す契機となったであろう。
貧民街と言われる地区に暮らしているが、おぬいは泥中の蓮のように、けなげな聖少女のように描かれている。だが、一番印象的なのはおぬいの見る悪夢だ。早くに父親を亡くした彼女は次第に老いてくる母親に捨てられてしまう悪夢を何度も見ては涙している。そして思うのだ。
 「二度と悪夢に襲われないために、このままで夜の明けるのを待とうとおぬいは決心した」
 「光の都市」の住民に、その不眠少女の孤独を救うことができるのかが、『星座』の深刻なテーマでもある。
 エピソードをもうひとつ。柿江は白官舎から夜学校に行く途中の創成川で奇妙な物売りに出会う。「その町筋は車力や出面(労働者の地方名)や雑穀商などが、ことに夕刻は忙がしく行き来している所なのだが、その奇妙な物売だけはことに柿江の注意を牽いた」。物売りは鉢巻の取れた子供の羅紗帽をざんぎり頭に乗せて、古ぼけたカキ色の外套を着て、兵隊脚絆姿。そして「日本服を改良しましょう。すぐしましょう」と上品な書体で黒く書いた白木綿の小旗を持っている。労働者街で見る奇妙な存在は異界への案内人であり、通過儀礼の人格化である。案の定、柿江は「闇の都市」へと蠱惑されていく。
 夜学校で授業を終えた帰路、柿江は真っ直ぐ道を西へ歩いて南四条橋を過ぎる。二丁(一丁は六十間=九八b)ほど進むと、もう歓楽街が目の前にある。
 「創成川を渡ると町の姿が変ってきゅうに小さな都会の町らしくなっていた。夜寒ではあるけれども、町並の店には灯が輝いて人の往来も相当にあった。/ふと柿江の眼の前には大黒座の絵看板があった。薄野遊廓の一隅に来てしまったことを柿江は覚った」
 大黒座(南四西三、薄野遊廓内)は澤村い十郎、尾上多見之丞など役者二十人ほどを擁する大劇場であった。そこからが官許の遊廓で二町四方には三十九戸の貸座敷に三百人を超す娼妓が属していた。昇月楼と並び双璧であった高砂楼(南五西三)を切り盛りしていたのが、先夫の子である(のちの)子母澤寛を残し、石狩・厚田の村を飛び出してきた三岸イシと橘巌松夫婦であった。ふたりは遊廓街の南のはずれ豊川稲荷(南七西四)に暮らしており、その地で天才画家となる三岸好太郎が生まれるのは一九〇三年のことである。
 柿江は妓楼に入ると堕落するのでは、と葛藤し、遊廓を南に通り過ぎてから、道を右折する。そこは「夜学校を出た時真暗らだと思われていた空は実際は初冬らしくこうこうと冴えわたって、無数の星が一面に光っていた。道路の左側は林檎園になっていて」とあり、南七条から山鼻村にかけて続く水原林檎園を見ている。豊川稲荷のところを曲がったのだろうか。一度は抜けた遊廓街であるが、柿江は立ち去ることができない。「本通りの大まがきの方からは、拍子をはずませて打ちだす太鼓の音が、変に肉感と冒険心とをそそりたてて響いてきた」。
 こうして柿江は娼楼に飛びこむのだが、頭の中には「日本服を改良しましょう、すぐしましょう」と書いた旗が揺れる。偽善から脱皮しようとする青年の性的煩悶を札幌というトポスで描き出した名場面である。
 『星座』は結局、未完のままに終わった。最後の章では園がおぬいの家をたずねて、母親とおぬいさんに愛の告白をする。「僕はおぬいさんとお約束をすることができたらと思うんです……そう願っています」と。
 だが、明確な答えをもらえぬまま、父親の急死の報を受けていた園は東京へ戻る車中の人となる。雪さえ黒く見えるような闇の中を驀地に列車は走る。そのラスト。
 「車内の空気はもとより腐敗しきって、油燈の灯が震動に調子を合わせて明るくなったり暗くなったりした」
 もとより明るい未来などない。この『星座』の物語を吉本隆明の詩の言葉で閉じれば「異数の世界におりてゆく」難しさのようなものが有島武郎の仮構した『星座』の青年にもあったように思われてならない。未来への不安に揺れる大衆の原像をいかに革命思想に繰り込むかという近代の理想主義のアポリアに通底していただろう。

*本稿執筆に当たって『明治三十二年 札幌案内』(狩野信平編輯、鷹谷吉郎兵衛発行、明治三十二年六月二十日発行、みやま書房により一九七四年復刻)を参照した。
(公益財団法人北海道文学館編『有島武郎と未完の「星座」』、2018年2月3日所収)

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