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批評・50年目の堕落論 1995年を問う

 五〇年目の八・一五はこともなく過ぎた。それまではひとしきり、国会の不戦決議を巡るドタバタはあったが、社会党委員長にして、自衛隊の海外派遣にいとも簡単に道を開いた日本国首相の村山富市が、全く「あいまいな日本」にふさわしい根拠も対象も未来像も不透明な「謝罪」を述べて、一連のセレモニーは幕を閉じた。「ちぇ」と心の奥で何かが舌打ちする。

 かくいう私とて、世間を批判できる立場にはない。「夏休み」と称して、自宅でなにもせず、時折パソコンを持ち出して調子を整えたり、パソコン通信をしたりして、全く内閉的時間に没入していた。正直に言うなら敗戦だろうが、終戦だろうが、件の記念日など、言われなければ気がつかないたぐいの領域のことがらに属するのだ。

 各メディアはここ一年、「戦後五〇年」をひとつの大きなメルクマールとして、何かを総括しようとしてきたが、結局新しい何かが生み出されたとは思えない。「歴史の終わり」という本が一時期大ベストセラーになったが、その気持ちはよくわかる。もちろん、著者のフクヤマの結論と私は見解を異にして、歴史の終わりにはニヒリズムではなく、やはり究極の社会主義としての共産主義以外には、理想像は存在しないと見る。だが、旧来の先鋭的な革命闘争概念が崩壊した現在、どうすれば共産主義、すなわち全世界が同時的に国家を廃止し、生きることの情熱を共有できる社会へと至る道が可能か、が依然として分からないのだ。

 だから、私たちは大きな状況には口を閉ざし、小さな私的領域に、かまびすしいほどこだわってしまうのだ。
 だが、形式主義的に言えば、「戦後五〇年目の八・一五」でなければ考えたり、語れないことはあるのだ。すなわち、五〇年後のオレが戦後百年を考えることなど、自分の生命力から言ってまず考えられないし、「五一年目の八・一五」など、やはり面はゆいだけのことのように思えるのだ。だから襟を正してあえて語りたい。「五〇年後の現在」についての私自身の思いを。

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 五〇年目のこの年、解放の未来像が定まらないことを除いても「戦後」問題が「戦争」から軸心を移したのは、二つの大きな事件の故だった。

 一つは一月一七日のまだ明けやらぬ神戸の町を襲った震度7の激震であり、もう一つは三月二〇日早朝の首都の地下鉄を襲ったサリン攻撃である。いうまでもなく、この二つの事件は誰もが指摘するように戦後最大の事件であった。別の言葉で言えば、再び戦争が露出してきたのである。

 燃え上がる神戸の町は明らかに、空襲を想起せしめた。家から家へと燃え移る業火は繁栄を謳歌してきた日本人の生活など所詮はつかの間の砂上の楼閣であることを、あざ笑うかのようであった。不思議なことに個人の不幸へのリアリティはなかった。みんな借金を抱えて家を買い、しのつく雨のような人間関係にうんざりし、砂糖菓子のように静かに壊れていく家族の絆に右往左往していることなど、どこかへ吹っ飛んでいくように見えた。

 まったく、誤解を恐れずに言わせてもらえば、広がり行く火が家々を渡っていくのは一種の快感であり、ヘリコプターから中継するアナウンサーが「火事はどんどん、どんどん広がっています」と叫べば叫ぶほど、火勢を煽っているように聞こえ、「広がれ広がれ」と私の心の中の悪魔が囁いているのがわかった。

 人間が死ぬことだけはいやだった。だが、「家がなくなれば、また建てればいいんだ」という気持ちだった。破壊は快感だった。「破壊は建設である」。(DESTRUCTION IS CONSTRUCTION!)。何かが変わる変わるのだ、と思った。地震はその契機だと思った。

 アジア侵略から太平洋戦争もたぶんそうだった。みんな大本営というメディアを通して、テレビスクリーンに映し出される神戸の光景のように、真珠湾や南方や大陸での、皇軍の燎原の火のような進撃に歓喜していたのだろう。その時、踏みにじられる中国人やビルマやマレー半島の人々の個人的な生き死になど念頭にはなかったに違いない。私は明らかにテレビの前で、皇国の一庶民になっていた。そして、「進め進め」と手を振っていたに違いないのだ。

 だが、第二次大戦がそうであったように、終わりは突然のようにやってくる。燃え続けた火はすべてを焼き尽くすと、何事もなかったかのように去ってしまった。気がつけば、無惨な無念な膨大な死と荒廃が残っているだけであった。私はそこで、日常に戻り、これからの生活を築きあげねばならない人々の苦労に、同情を禁じ得なかった。もっとも、それとても本当は他人事だった。ボランティアの人々のはつらつとした姿はすがすがしかったが、彼らはどこかでシュミレーション化された「もうひとつの戦争」を楽しんでいるようにも見えた。

 バラックでの日常はいつまで続くか分からなかった。だが実際は二カ月しか持たなかった。もちろん、それは被災した人々の生活ではなく、「現代の大本営」であるテレビの関心がである。

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 首都の中枢を狙ったのは第一次と第二次世界大戦の遺物たる毒ガス兵器であった。戦略的にはそれは見事なもので、実行部隊たるオウム真理教の精鋭テロリストたちは地下に張り巡らされた水路というか、米軍の攻撃を巧みにかわし革命への動脈となったベトコン・ルートのように都市の地下鉄を自分のエリアとして駆使した。彼らは事前に銀座で情報宣伝活動を展開し「日出ずる国災い近し」とのパンフに地下鉄の路線図を付けた。彼らは彼ら流のやり方で戦闘宣言を発していたというわけだ。彼らはフリーメーソンに操られた日本政府へテロルをしかけた、はずだった。

 しかし、作戦は例によってオウム集団らしく思わぬ方向へと展開した。彼らの失敗は本来、霞ヶ関の権力中枢を狙ったはずなのにいわゆる日本社会の基幹を支えているサラリーマン達を傷つけてしまったことである。死者十一人、五千人を超す負傷者数に慄然とせざるを得ない。

 しかも権力への攻撃ではなく、まさに誤爆である。オウムの諸君を見ていて、感じるのはどうしょうもない頓馬ぶりである。なぜそうなるか、というと彼らには与えられたテーマを実行することしか念頭になく現実世界に様々に存在する膨大なエンテロピーへの大局観が欠落している。もっと、簡単に言えば、目的だけを与えられたロボットだけに常識がないためと言ってもいい。松本サリン事件がそうだった。彼らは、裁判に負ける恐れがあるため、裁判官官舎を狙ってサリンを噴霧したわけだが、これが気象条件も影響して、目的を達し得ず、大半が一般住民への被害となってしまった。坂本弁護士一家殺害事件にしても、本来は対象外だったはずの幼児まで手を下してしまっている。

 もちろん、オウム集団のテロが霞ヶ関の官僚の幾人かを死傷し、一時的ではあれ国家の機能の一部を実質的に麻痺させたとしても、この管理社会の何かが変わる訳では全くない。ここにも大局観の欠落と時代への錯誤があった。
 もはやテロリズムによって、社会システムの根幹が変わるというのは幻想以外の何者でもないだろう。終わりなき日常は、高度な消費社会構造が退行するか、新たな構造へと転位するのでなければ、依然として強固である。既に古いテロリズムによって社会に動揺を起こすことが、新しい価値を生むなどというのは、宗教的・宗派的倒錯でしかないだろう。

 彼らの行為は戦争と科学という負の遺産を、現代に蘇らせたにとどまらない。そうした行為を引き起こす組織が、基本的には疑似国家を宗教的権威の元に形成するという第二次世界大戦で崩壊した日本国家の姿をシミュレートしてみせたことである。誰もが少しだけ口にしながら、明確に批判を避けたのは、彼らが五〇年前の日本の姿そのものの亡霊であったことである。

 超能力と最終解脱者という宗教的意匠は、天皇の権威を一代で形成するための荒技であった。そして、血のイニシエーションと三女への後継いう血統重視。神聖法皇などという、たわけた「聖的」トリック。繰り返される「臣民」の心得たる麻原の説教。ワークと称される奴隷労働的徴用。徹底的秘密主義。上層部と大衆信者の意識乖離。マインドコントロールとは天皇主義ファシズム国家の意識形態をシミュレートするもの以外の何者でもない。
 
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 私たちは「戦後五〇年」の年に、はからずも「戦争」を疑似体験していたのである。二つの戦争から本当は、徹底的に学ぶことができれば、私たちの現在に対する新しい視点を形成できたかもしれない。しかし、私たちのマスコミはただ、次から次に起こる事象に目を奪われ、新しい事件を期待しただけであった。

 私も、事の重大さには気づきながらも、十分な総括ができる地平へとたどりついていなかった。このことのつけはいずれ大きなものとなって戻ってくるだろう。

 そんな中で迎えた「終戦の日」に私は一冊の文庫本を読んでいた。
 題名は「堕落論」(テキストは角川文庫版、昭和三十二年初版、五十一年改版二十八版。原本は昭和二十一年刊行)。筆者はいうまでもなく、坂口安吾である。私は神戸の震災を見ながら、あるいはチベット仏教の奥義伝承を語るオウム集団の跳梁を見ながら、実は第二次大戦中に書かれた安吾の文章の一節をずっと思い浮かべていたのであった。
 それは次のようなものである。

>>俗なる人は俗に、小なる人は小に俗なるまま小なるままのおのおのの悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。 芸術もまたそうである。まっとうでなければならぬ。寺が あって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。もし、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動だにしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新たに造ればいいのである。バラックで、結構だ。

>>法隆寺も平等院も焼けてしまっていっこうに困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して滅びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが、累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り月夜の景観に代わってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下ろしているかぎり、これが美しくなくて、何であろうか。見たまえ、空には飛行機がとび海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けて行く。我々の生活が健康であるかぎり、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生まれる。そこに真実の生活があるからだ。               (「日本文化私観」)

 坂口安吾が言っていることは、明確だ。この文章を執筆した当時、戦争が実際にどの程度、本土を破壊していたかは定かでない。しかし、仮に破壊されていようと、いまいと大切なものは形ではなく生きている人間そのものである。人間の暮らしである。そのように安吾は言っているのだ。宗教者たちは、いたずらに立派な神社、仏閣(今風に言えばサティアン?)を造りたがる。それは見た目には華やかかもしれないが、生きることの意味を問う宗教の基本をないがしろにしているならば、バラックよりも劣る。そのような形式など、いったん徹底的に破壊されるといいのだ、と指摘する。

 私は、この文章を二十数年前に読んだが、いつも、戦後の原像として、心に刻んできた。つまり、後に小林秀雄に対して「文学は生きることだよ。見ることではないのだ」と的確な一針を放ち、小林を「教祖の文学」として生きた人間を見ず、死んだもの、形が定まったものを鑑賞するだけの批評として批判する安吾らしく、法隆寺をあがめてやまない一部の人々の美意識を否定し、普通の人間の生き暮らして生活がある限り、そこに本当の人間らしさが美が存在する、と明快に主張している。

 戦争は多くのものを破壊する。しかし、人間の希望までを破壊することはできない。安吾が確信していたのはそういうことだったろうと思う。「日本文化私観」の延長線上で戦後早々に書かれた「堕落論」のいささか衝撃的な人間論もそのように理解されるべきだろう。

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 「堕落論」は次のような文章で結ばれている。

>>人間。戦争がどんなにすさまじい破壊と運命をもって向かうにしても人間自体をどうなしうるものでもない。戦争は終わった。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変わりはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
  戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄のごとくではあり得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それゆえ愚かなものであるが、堕ちれず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるだろう。だが他人の処女ではなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人のごとく日本も堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。 
  
 なんという透徹した人間観であろうか。
 「人間だから堕ちる」という安吾は、逆にそうした堕落を引き受けきれない中途半端さの中に、危うさを感じている。 安吾の言う堕落を、私は「解体」という言葉に置き換えてみたい。「人間だから解体する」のだというふうに。私たち人間というものは「建設」への意志を持って生きている。しかし、同時に「解体」を引き受けきる場所に、出発点は存在する。その場所を直視せず、ごまかしたとき、私たちは「虚構」へと逃避するのだ。

 「堕落論」に続いて執筆された「続堕落論」では次のように述べられている。

>>昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するところを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民またこの奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰めの一幕が八月十五日となった 。
  たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、ほかならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う 。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
  我ら国民は戦争をやめたくて仕方がなかったのではないか。竹槍をしごいて戦車に立ちむかい、土人形のごとくにバタバタ死ぬのが厭でたまらなかったのではないか。


 堕ちきれない人間が、そうした日本人が作り出す「虚構」こそが「天皇」である、と安吾は喝破しているのだ。私たちはあの「終戦」の日の天皇の声がとぎれとぎれに聞こえてくる「玉音放送」に関する美化されたイメージを吹き込まれているが、当時の一線の文学者が、かくも厳しい認識を持っていたことに新鮮な驚きを覚える。
 「たえがたきを忍び(たえ)、忍びがたきを忍んで」などとは、嘘八百である。国民は自らの意志で、戦争を終結させるべきところを、自ら声をあげず、天皇という装置を使って自らの意志を隠微な形で実現させたのである。
 堕落することが、解体しきることが、できるならば、私たちは「天皇」などという「虚構」を必要としない。逆に堕落し解体することができないものたちによって、亡霊装置は何度でも蘇る。


>>私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈倫しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない。                (「続堕落論」)
>>天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかるもろもろのニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発し直す必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の欺瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。まず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。                  (「同前」)

 私の「戦後」原像は極めて、安吾の言うべきところに近くある。私は戦後をタブーからの解放の時代と見る。江藤淳やその亜流たちが、戦後の検閲を大仰に語り、何か暗黒の時代であるかのように描き出すことには同意できない。
 「占領は日本軍の敗北の結果である。それが戦前、戦中の国策の破綻によることは言うまでもない。とすれば、占領期に対する江藤の嘆きは、戦前、戦中に対しては、それに百倍する嘆きを抱懐していなければならないはずである。それが物の順序というものであろう」と、鮎川信夫が喝破したが、江藤ら戦中回顧派への批判はそれに尽きる。私は大衆のレベルに於いて、戦争の終焉は明らかに、それまでの偽善的な超自我からの解放であったろうと見る。米国という雲が時代を被っていたとしても、たぶん青空が見えたのだ。

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 ビルは壊され、寺は焼かれたとしても、人間が希望というものを手探りでも求めていた限り、バラックの家々の向こうに明日が確実に見えた。

 そうした権力解体の「八・一五」を戦後のゼロ地点と言ったのは菅孝行だったろうか。菅の「方法としての戦後」とは「帝国主義敗北の瞬間に己れを立たしめるところから、思想過程を再出発させようとする試みなのだといえる。その瞬間とは、戦後の思想過程のゼロ地点であると同時に、国家幻想のゼロ地点であり、メトロポリス↑↓サテライト構造を根底から解体する作業の、無限の可能性を内在させた、戦後の原点である」というものであるが、その場所はたぶん安吾の見ていた場所でもあった。そこは一切の虚構を取り去った、可能性を秘めた場所であったろう。

 そこから、私たちの親と私たちはどう歩き出したか。たぶん、それが五〇年目の総括の要諦である。

 私たちは堕ちきることができなかった。
 「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見」することができなかった。私たちは、中途半端な場所で折り返し再び虚構を重ねてしまった。「昔日の欺瞞の国に逆戻り」してしまったのである。随所に天皇とそのエピゴーネンが闊歩してしまった。自己の主張を隠蔽する装置として、それらは復活し再生産させてしまった。虚構と選民意識だらけのオウム真理教と麻原彰晃とは、そのマンガ的典型である。

 確かに、空には飛行機が飛び、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駈けてはゆく。その生活は確かなものであり耐乏だの清貧だのという反動的なイデオロギーを打ち倒す物質力である。しかし、私たちは自らの意志で発言し律していく主体的地平を確保しているか? むしろ、自律性を保持しているのは擬似的組織である。私たちは解体しきれないままにそれらを構築した。時代に漂う奇妙なユートピア観や終末観はそんな中途半端さから来ている。

 阪神大震災とオウム事件が「戦争」の露出であるならば、その終焉を第二次大戦の終戦と重ねあわすことができるか。「堕落論」と重ねあわすことが可能だろうか、というのが戦後五〇年目の私の感慨である。「生きよ! 堕ちよ!」というアジテーションが世紀末の感性に届くだろうか。

>>しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を生きぬくよ。そして、戦うよ。       (「不良少年とキリスト」)

 安吾よ、言うな疲れを!
 その励ましを自らに返し、私もまた、もう少し歩いて行きたい。二つの大事件が災いだとしても、それは忘れていた戦後の原点を私に思い出させてくれた気がする。
 解体の中に、希望は存在する。私たちはシミュレーションとしてしか敗戦を再体験することができないが、繁栄の日常を相対化する場所から、自己自身と社会の可能性を問いつめていくこと。それが、「戦後五〇年」への私のささやかな回答である。

           (文芸同人誌「詩と創作 黎」第76号、1995年秋季号所収)

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