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批評断想IDEA

 どこに表現の根拠を置くか   1991

 谷口です。きょうは、「どこに表現の根拠を置くか」というテーマに向けて述べたい、と思います。文学に関係している皆さんは何を今更みたいな印象をお持ちになるかもしれません。実際小説なり評論なり詩を書いていらっしゃる方には「自分は自分にとって一番切実な事柄を書くに決まっているじゃないか」と叱られるかもしれません。しかし、私自身のように曲がりなりにも20年余り文学というよりは〈現在〉というものにリンクさせて〈表現〉の問題を考えてきたものには、やはりいろいろな意味で無意識というか意識の自然性に依拠した〈表現〉はある種の曲がり角に来ているのだ、という実感を否定できないのです。もちろん、こうした私の押しつけがましい言い方に対しては反感や反論を持たれる方も沢山いらっしゃるとは思います。しかし、謙虚さだけは維持するつもりでおりますので、ひとまずは〈現在〉に対する私自身の到達点を語ることによって皆さんの今後の表現活動に少しでもお役に立てればと思っております。

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 変革思想の崩壊と後退 89年以降の世界的動向について考えますと、第一に言えることは旧来、もっともラジカルな社会変革の思想であると思われてきたマルクシズムの崩壊ということだと思います。東欧諸国のソ連ブロック圏からの離脱とソ連ブロック圏自体の解体は、もはや誰も止めることができません。そしてソ連国内はもとより周辺諸国では民族問題が噴出して基本的には打つ手なしの状況を迎えているように思われます。それでも「東欧はこれから本当の社会主義に向かうのだ」と元気いっぱい語る方もいるわけですが、私はそういう考え方は決定的に誤っていると見ています。スターリニズム的に歪曲された社会主義についてはここでは多くを語りますまい。しかし、もうひとつの民族問題について言えばよくも悪くも真面目にマルクスやエンゲルスの文章を読んできた者には彼らの思想がどんなに弁護しようとも、民族問題に対して抑圧的であることを本質としてきたことは否定できないからです。マルクスの民族論と言いますと 他の民族を抑圧する民族はけっして解放されない 民族問題は国際的革命運動の一部分である−というのが2大原則です。これはスターリンが定式化したものであったと思いますが、一般的には必ずしも間違っているとは言えないものです。あるいは「民族は独立を求めプロレタリアートは解放を求める」という毛沢東流の言い方もあります。ただ問題はマルクスやエンゲルスです。彼らは非常に民族問題には残酷であったといえます。 
 たとえばエンゲルスは1848年のヨーロッパ革命の総括的文章類の中で次のように述べています。            
 ヨーロッパのどこの国にでも、どこかの片隅に一個または数個の民族の廃虚がある。それはのちに歴史的発達のにない手となった民族に撃退され圧制された以前の住民のなごりである。歴史の進行に、ヘーゲルのことばをかりていえば「無慈悲にふみにじられた」民族のなごり、この民族のくずは、すっかりほろぼされるか、あるいは民族でなくなるまでは、つねに反革命の狂信的なにない手となりまたなっているのである。(中略)つぎの世界戦争は反動的な階級や王朝ばかりでなく、すべての反動的民族をも地上から消滅させるだろう。そして、これもまた一つの進歩である。                 (「ハンガリアの革命闘争」)
 吾々はくりかえしていう、ポーランド民族、ロシア民族、およびせいぜいトルコのスラヴ民族をのぞいては、その他のスラヴ民族は未来をもっていない、と。それはすべての他のスラヴ民族には独立と生存能力とのための最初の歴史的・地理的・政治的・産業的諸条件が欠けているという簡単な理由からである。
 自己自身の歴史をかつてもったことがなく、最初のもっとも粗野な文明の段階にたっした瞬間からすでに外部の権力にしたがっている民族、あるいは外部の桎梏によってはじめて文明の最初の段階へひきこまれた民族は生存能力をもっていないし、なんらかの独立に到達することはけっしてできないだろう。       (「民主的汎スラヴ主義」)

 私はこの文章を読んだ時本当に驚きました。「これはヒットラー以上だな」と思いました。「生存能力のある民族」「生存能力のない民族」という言い方で、弱小スラヴ民族に未来はないと決め付けているのです。あるいはスペインのバスク民族は廃虚にいる「民族のくず」だと言っているのです。要するに今、東欧諸国で復権を求め噴出している小さなスラヴ民族の存在、たとえばセルビア、クロアチア、ボスニア、スロヴァキア人などを、「生存能力のない民族」として完全に否定しているのです。マルクスやエンゲルスの党派にくみしている人は、この問題にキチンと答えてくれなくては困ります。日本で言えばアイヌ民族はやはり「歴史的発達のにない手となった民族に撃退され圧制された以前の住民のなごり」ということになるのだと思います。こういう言い方に怒りを覚えるのはアイヌ民族だけではないと思います。マルクス主義の党派に属する人に多く見かける尊大さの源流は御本家にあったと思われます。エンゲルスはバクーニンを「すべてのスラヴ民族の独立を無差別に要求する民主的汎スラヴ主義者」と非難したうえで、「すばらしいカリフォルニアが、なすすべをしらない怠惰なメキシコ人からうばいとられ、精力的なヤンキーがそこの金鉱山から急速に採鉱することによって(中略)世界貿易にあたらしい方向をあたえることが、あるいは一つの不幸だとでもいうのか?」とアメリカの侵略主義を文明主義の立場から賛美しています。メキシコ人やインディアンなどは生産力増大・世界市場形成のためならどうなってもいいというわけです。バクーニンについてはよく知りませんが、批判されかたを見る限り、エンゲルスよりはマシだったと思わずにはいられません。
 マルクス主義批判が長くなりましたが、要するに以上の指摘から、彼らが現在の民族問題の噴出に対して基本的にはなんら責任をもった答えを出すことはできないということは明らかだと思います。
 彼らの権威の失墜は気持ちのいいものですが、大局的に言うならば私達は新しい危機を抱えてしまったと言えます。なぜなら、従来、変革の思想というものはマルクス一派が独占していたわけで、私のような純真な青年期を過ごしたものには、彼らの影響力抜きには社会変革の問題など考えられなかったのです。実際、彼らを超える体系的な変革思想など今なおありません。東欧諸国の混乱を遠目で見ながらそれらの闘いの渦中にある人々にも残念ながら十分な展望があるとは思えないのです。では資本主義が一番、ということになるのかというと、私はそうは簡単にはいかないと感じています。

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 高度資本主義の完成と陥穽 「私は現在の生活には決して満足していない。しかし、私は現在の生活を破壊しようとまでは考えない」。多分乾いたニヒリズムの下で日常性という時間を重ねているというのが、90年代の日本人の一般的な精神風景ではないでしょうか。
 私達の社会で、この社会全体をどう変えていくのか、それは体制的でも反体制的でもいいのですが、そういう明確な意志を持った人や、そういう影響力のある思想というものは、基本的には無くなったと考えたほうがいいと思います。多分、その背景には私達の社会が非常に高度化し、システム全体を見通すことが大変困難になっているということがあるのではないでしょうか。
 私達の社会がまだ戦後というイコンを背負っていた時期には、マルクシズムとともにナショナリズムや戦後民主主義というものが一定程度の影響力を持っていたことは間違いありません。しかし現在、マルクシズムは世界的にそうであるようにもはや破綻を宣言されています。ナショナリズムもまた、それ自身アメリカの圧倒的優位性に対する反発によって左右を問わず形成されていたものだけに、現在の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という、いささか眉唾的ではありますが、経済大国化状況においてはこちらもやはりインパクトを失っているように思われます。最後に残っていたのが、戦後民主主義なのでしょうが、これはいわば敗戦後の貧困の中に芽生えた美しくもひ弱な幻想であっただけに、大衆の生活が向上する中で、理念的にはともかく実態的には既に追い抜かれてしまったと言わざるを得ません。戦後民主主義の一番の担い手は多くの同世代の人々を戦争で失い、戦後の再建を最先端で進めてきた戦中派だったと思いますが彼らは既に十分に役割を終え、社会の前線から引退しつつあります。現在の社会の主役は昭和世代であり、実働的には戦後世代であるわけです。この世代に於てはもはや戦争の傷自体決定的なものとしては存在していないように見えます。さらに若い世代は論外でしょう。   
 戦後社会というのは地域的に見れば随分不均等に発展していました。明確に都市がありそれに対して地方というものがあった。私が学生時代、血気盛んなころでしたから、ヘルメットとナップザックだけを持って夜汽車に乗り、連絡船に揺られて一日かけて首都へ行ったり来たりしていました。その時感じたのは、日本というのは随分広いなあということでした。北海道のトタン屋根が内地では瓦に変わります。東北、北関東、東京と本当に車外の景色が移っていくのです。地域性というのは意識においても形においても、かなりはっきりしたものとしてあったように思います。
 しかし、その後、風景論などが主張されましたが、意識にしても町の景観にしても、極めて均質化が進みました。どこの町にも駅ビルが立ち、駅前には大手のデパートやスーパーが並び、ちょっと外れてくるとコンビニエンスストアが点在し、道路沿いには大きな駐車場を持った安売り店や量販店があります。デジャヴなんていいますが、どこも同じ景色なんですから、既視感にとらわれるのは当然なわけです。
 意識について言えば、私達の国の教育は標準語を使って子供達を教化し、標準偏差を持ってなるべく普通の常識のある国民を造ろうとしてきました。放課後には塾にいくという小、中学校時代を送り、その後みんなが高校に行き、さらに成績には関係なく大学や短大、専門学校に進むこともできます。ユニークさなど入り込む余地はなく、自己形成過程が完全に均質化しているのです。
 そして大半の人が卒業後、サラリーマンかOLになります。生産性向上運動にきれいに枠をはめられた、テーラー・フォードシステムのもと、弁証法的に言うならば相互浸透した断片的な仕事をし、同じような給料をもらいます。よほど美人の奥さんは運がよくなければもらえませんが、みんなそれなりの結婚をします。30を過ぎるころには家を持ちたくなり、そこそこ貯金もしています。そうして感じとられる生活を中流と呼びます。意識調査をすればほとんどの人が自分が中流であると答えます。ここでは〈生活と生活意識の均質化〉が支配しているわけです。
 かつては都市と地方、知識人と大衆、贅沢と貧困、あるいはプロとアマなどは画然と2項対立していたわけです。しかし、そうした戦後的命題は完全に失効しています。現在の日本が到達した高度資本主義というものはそういうものです。一見多様性を装いながらも本質的には均質化という価値観が徹底しているわけです。
 理論的に言えば、この傾向は止められないでしょう。日本中どこでも田舎であり都市であるという二つの側面を持つことでしょう。性も男にしろ女にしろフェミニストが考えている以上に、その差は縮小していくと思われます。かつては体験の違いや生まれの違いや男であるか女であるかの差が決定的であり、それが文学の素材的価値の源泉であった面が強かったように思われます。しかし、今までの私が語ってきたことから見れば、そうした地域性や体験や性の違いに依存した文学は決定的にその衝迫力を喪失しつつあると言えます。そうした自分の体験の固有性に価値を置いた文学は限界に来ていると思われます。「特筆されるべき固有の体験などない」というのが、大局的に見た文学状況なのです。文学を始めようとする人の中には自分の体験が何か他人にはない凄いものであるかのように考えている人が少なくありません。しかし、謙虚に見れば、それらの体験はほとんどが「凡庸」という一言で済ませたいものが少なくないのです。
このことに自覚的でない表現は、私に言わせれば既に死んでいると断言せざるを得ません。

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 未知なものとしての世紀末 前の部分で、私は戦後日本の到達点としての均質化ということを強調しました。それが〈現在〉の支配的状況であることだけは間違いありません。しかし、話はここで最初の東欧崩壊にリンクします。つまり高度資本主義が達成された日本の戦後・後と、冷戦構造が崩壊した世界がどう連関するかが問われて来るわけです。その2重状況を思想的に徹底的に引き受けるところにしか表現の根拠は見えてきません。
 繰り返しになるかもしれませんが、東欧崩壊・民族主義の噴出ということをもう少し考えてみましょう。スラヴ民族を中心に自分達の国家を作ろうという動きが激烈に進んでいるわけですが、これを日本で考える右翼的な民族主義と同一視するのは誤っているように思います。これらの民族主義は一見独立を強烈に主張しているわけですが、どう見ても排他的な民族至上主義とはなじまない。むしろ、独立を求めているのだけれど、根本的にはより自由な暮らし、あるいは国境を超えたヨーロッパという共通の世界に均等に参加したいということがあると思います。私達は民族主義に対してはすぐに国際主義といいますか、インターナショナリズムあるいはコスモポリタニズムというものを対置しがちです。しかし、そうした拙速な考えは避けたほうがいい。現在の民族主義を目指すところに近づけて考えるならば、いわゆるトランス・ナショナリズムという概念がふさわしいように思われます。つまりできるだけ国境という垣根を低くしつつ同時に自己のアイデンティティーは保持しようというものです。大変過渡的ではありますが、それが世界の流れだと思われます。
 民衆レベルで言えば、民衆は商品と同じように世界に溢れだします。とすれば一国主義的な〈均質性〉はイデオロギーや政策判断を超えて維持できなくなる。社会は単なる外部ではなく内側に外部を抱えてしまうのです。言い換えるならば、一国=世界状況の浮上です。
 つまり私達の置かれているこの国の状況は、高度に完成された均質化社会と、世界から吹いてくる人類社会の前哨という2重性をどう捉えるかということに先端的には尽きるといっていいと思います。私達はこれまで経験主義に軸足をかけ、さらには極めて地域的・一国的・単層的に物事を考えてきました。しかし〈現在〉に於てはそれらは無効を宣告されています。
 いろいろな出口があるかもしれません。ただ、私が感じますのは、〈視線〉という言い方が適当かどうかわかりませんが、いわば自然性によってコントロールされた〈視線〉は、この状況を総体的にはつかまえることが難しくなったことは明らかです。時間性と空間性という指標を考えてみますと、その双方を日常性から〈逸脱〉させていく方法論が必要なように思えます。
 たとえば、空間性に関して言えば、現代社会を一国=世界性を持ったシステムと見通す位置が求められます。それは比喩的に言えば宇宙から地球を見るような位置であり、あるいは人間存在や社会性を最小のレベルから括れるような場所です。時間性に関して、同じように言えば錯綜した関係を完全に無化するような未来もしくは、過去のような超時間あるいは無時間の位相が大切でしょう。要するに私達は言葉の本来の意味での徹底した「想像力」が問われているといえます。
 現代の想像力の一つの典型はシミュレーションであると私は思っています。つまり、体験の自然性から飛躍する体験の作為性こそをと言いたいと思います。要するに私達は「体験の既視性」と「体験の未知性」を重層化しなければ、ならない。つまり、繰り返しになりますが、どんなにユニークな体験もそれ自体ではなんの衝迫力もない。恋愛を考えれば、同性愛であれ、母子相姦であれ不倫であれ、少女愛であれ、夫婦解体であれ、おそらく均質化されたシステムそのものか、それから逸脱するかに見えてしかし実際はシステムを補完するものでしかないのです。あえて言えば「可能性としての純愛」のみが(形式はともあれ)それらさまざまな恋愛の「凡庸性」を超えて〈現在〉に迫ることができるのだと思います。
 もうひとつの問題について言えば、世界性というものは多分、これまでは抽象的であった。しかし、これからは身体性のレベルから具体化してくる。いったん完成した均質化社会は再構成を余儀なくされるのは確実です。この過程は「民族」や「人種」の軋轢を生むとともに、そうした桎梏を超えていく世界史的な「人類」形成への過渡でもあるはずです。これは言ってみれば、社会のこれまでの在り方を根底的に揺するものとなるでしょう。そこでも経験主義的な対応を超えた「想像力」が不可避であることはいうまでもありますまい。       
 私達は現在、世紀末的状況にあります。ここしばらくノストラダムスのようなフランスの予言者の言葉の解釈本がベストセラーになり、それを我田引水したような大川隆法のヨタ話がやはり売れるということは、それなりに根拠のあることなのです。ノストラダムスの詩篇は本当は過去の出来事を未来に投影した程度のものです。しかし、この既視感覚(デジャヴ)というのが大切なんです。結局、これまで話してきた文脈に沿えばそこで行なわれていることはシミュレーションといえるわけです。単純な経験から離れて、ある作為されたレベルで現状を再構成するわけです。結果的にそれは現在のような世紀末に於ては表現の根拠になりうるのだということの傍証になっている。大川の言っていることはほとんどが他人の言ったことの口真似なんですけど、その手法がシミュレーションの時代を象徴している。もうひとつ大川が言っていることの〈現在性〉は法螺のスケールが大きいことなんです。大川は人類がはるか昔、宇宙からやってきたといい、ムーやアトランティスなど本当は定かではない未確認文明をまるで見てきたかのように話す。信仰や事実のレベルでは誰もが嘘だと思っています。しかし旧訳聖書がそうであるように〈物語〉としては大変面白いものであることだけは間違いありません。     
 それならば私達は、ノストラダムスや大川隆法と表現を競わなければならないのか、と考えられる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは全く違います。彼らの表現は私達の、少なくとも言語の美学を尋ね、その上で人間にとってもっともラジカルな対象である人間について探求してきた〈個的営為〉である文学とは本質的に無縁です。ただ現在性という意味でそれらの法螺話が一定の支持を受けるということを無視してはならないということです。                    
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 書くことの意志 今、文学は大変低調だと言われております。確かに文学が独占していたであろう多くの人間的欲求は新しいジャンルの表現によって、より速やかに超えられてしまったという側面は少なくありません。それはそれでいいのです。問題は文学が読まれなくなったから、どうするか、というような芸術大衆化論争レベルに引き返すことでは決してありません。読むに耐えうる文学を私達がどこまで書いているか、ということです。私は主に評論を書いてまいりましたが、お恥ずかしい限りです。所詮、新人戦でしかない多くの文学賞を見てもそれなりには工夫があり、面白いものも少なくないのですが、やはり何度も何度も読みたい一緒に考えたいという気持ちになる作品は極めて少ない。逆に言えば、本当に〈現在〉に耐えうる文学が、今こそ待望されている時はないのです。その意味で若い友たちには書くことの強い意志を持っていただきたいと思っています。    
 いささか大時代的な話になってしまいました。本当は表現の問題について、無規定に風呂敷を広げすぎたことを反省しています。もっと可憐な、そおっと息をひそめているような世界もまた文学の魅力だからです。今回は〈大文字〉の文学表現の話であると思ってください。
 人間の原像を考えると、要するに、生まれ、育ち、恋愛であれ結婚であれ形はともかく対を形成し、そして老いて死ぬ、だけです。               
 私がいささか大袈裟に述べてきたことも、煎じ詰めればそうした人間の生活の原像がどこまで「自由」でありうるか、そのことへのラディカルな視点が一段と問われているのだということなのです。一国=世界状況下で、疎外でも、物象化でもいいのですが、そこからの解放の想像力が求められている。どうも自分の人生の持ち時間が少なくなりつつあるせいかなんだかしんきくさい話になってしまいました。               
 どんな困難な時でも未来を切り開くのは若い力です。私のおしゃべりで、もっとも言いたかったことは新しい書き手が登場することを期待しているのだ、ということであったということを強調して終わります。
          
  (文芸同人誌「詩と創作 黎」第60号、1991年夏季号所収)

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