残響未だ止まず−小伝・加清純子
「天才少女画家」として知られる加清純子(かせい・じゅんこ、友人らは「かせ」と呼ぶことが普通だった。ローマ字のサインは「Jyunko Kasei」などと記している)は一九三三年(昭和八年)七月三日、教育者だった加清保(一九〇〇〜七八)、テル(創価学会第二代会長・戸田城聖の妹、一九〇三〜八二)夫妻の次女として、札幌・中島公園南接の文教地区に生まれた。
兄に準(ひとし、一九二八〜二〇〇七)、姉に蘭子(一九二九〜二〇一二)、純子の下には鍾(あつむ、詩人・暮尾淳、一九三九〜二〇二〇)、聡(さとし、一九四五〜七五)の二人の弟―がおり、加清家は仲の良い七人家族だった。自宅はもともと2軒続きの教員住宅であったが、改築されて使われた。
加清保は石狩・当別の獅子内、テルは同・厚田の別狩生まれで、ともに札幌の北郊で育った。保は札幌師範卒業後、初任こそ当別の太美小学校だったが、その後、師範学校専攻科に入りなおし、主に札幌市内の学校で教職に就いた。テルもまた一時期、炭鉱の街・夕張で兄城聖(甚一)とともに教員をしていたことがあり、城聖の紹介で彼の友人であった保と結婚した。
純子は加清家の兄姉と同じく、四〇年四月に札幌師範学校付属小学校に入学している。同年十一月には紀元2600年祝賀行事が開かれるなど、学校現場は軍国主義教育に彩られており、いわゆる「少国民」世代であった。付属小学校は翌年四月には付属国民学校と衣替えした。純子は身体が弱くよく休んだが、下級生のころは短距離走で優勝することもあった。一方、高学年になると文才も芽生え、日本軍のアッツ島玉砕(一九四三年五月。同年九月には札幌・三越で国民総力決戦美術展、中島公園で約二千六百人の合同慰霊祭も行われた)に捧げる作文を書いて、優秀作品に選ばれたこともあった。
戦争末期には弟の鍾とともに、父の実家がある当別・太美地区に疎開していた。スピリチュアルなところがあったのか、予知していたように終戦の日に札幌に戻った。鍾の手を引いて、抜けるような青空が広がる豊平川の堤防を歩いて自宅に着くと、家族で玉音放送を聞いた。流れてくる天皇の言葉遣いが可笑しくて、父親に怒られても純子は笑うのをやめなかったという。
北海道は一九四五年七月十四、十五日の空襲で大きな被害に遭うが、幸いにして札幌は空襲を免れた。だが、その年十月にはアメリカ兵が札幌に進駐してきて、大通公園には米兵のための教会も建った。駅前通りなど札幌中心部の主要なビルはGHQ(占領軍総司令部)関係の事務所街に変わった。米軍ジープが走りまわり、派手な服装の女性たちが米兵と歓楽街とその周辺を歩いていた(加清純子の小説「一人相撲」には豊平川にかかる幌平橋からそうした風俗の一端が描かれている)。薄野に近い狸小路には統制の隙間をついた「闇市」が生まれていた。「鬼畜米英」の軍国主義が一夜にして瓦解する現実と新たな価値観を模索する混沌を十二歳の少女は目の当たりにした。軍国少女は自由を求める「アプレゲール」世代の渦の中に巻き込まれていった。
一九四六年四月、庁立札幌高等女学校(四七年から併置中学校となる)に入る。父・保は教員を中心とした北海道童話研究会のリーダーを務め、童話雑誌「ひばり」を編集・発行していた。保はまず姉の蘭子に作文を書かせていたが、純子にも発表の場を与えた。純子はそこに「仲ヨクツブレタ自ドウ車」などの漫画を描いたほか、一九四七年六月には純子の原案、後藤ひさお絵による絵本『水中もぐり』も刊行している。母親テルの故郷の厚田への帰郷体験にヒントを得た海の中の豊かな世界を描いた物語だった。純子は芸術的才能の片鱗を見せ始めており、一九四八年三月には校内の演劇コンクールで演出賞も受賞している。
中学三年生となった一九四八年九月、油絵「ほうづきと日記」(ホオズキと日記―とも表記)が第二十三回道展(北海道美術協会の公募展)に初入選を果たす。純子は北海道アンデパンダン運動を牽引していた「風雲児」菊地又男から絵の指導を受けるようになっており、その早熟の才は師の思惑を超え、世間を驚かせた。新聞は「天才少女画家」の誕生をまぶしげに伝えた。純子は菊地又男に連れられ、夏の阿寒湖畔のほか、春ニシン漁でにぎわう留萌、増毛などにもスケッチ旅行に出かけている。
一九四九年、庁立高女が衣替えした北海道立札幌女子高校1年生になると、生徒協議会委員長、美術班員として積極的に活動する。道民主美術展、ユネスコ学生美術展、高校美術連合展、第24回道展などに矢継ぎ早に出品、ユネスコ展ではGHQのウィンフィールド・ニブロ北海道民事部民間教育課長から表彰を受けている。十二月には第三回道アンデパンダン展にも出品している。一九五〇年三月に刊行された自治会雑誌「楡」には小説「無筆の画家」を発表するとともに、座談会「此頃の生徒を語る」にも出席し、生徒のアルバイトをめぐる話題で「アルバイトをした事によって何かを得るという事はありますから、時にはいつもの荒波のない社会から出て、アルバイトをするという事もむだではないと思います」と前向きの発言をしている。
一九五〇年からは中央画壇にも進出し、四月の第四回アンデパンダン女流画家協会展に「リズム」「作品」の二点を出品した。朝日新聞北海道版に「中央へ進出の年 少女画家加清さん」、北海タイムス一面「女人百態」には「画壇のホープ 情熱と精進の加清純子さん」などと写真入りで紹介された。
この頃は戦後の学校制度改革が慌ただしい。一九五〇年四月末、道立札幌女子高校は道立札幌北高校となる。純子は校区が変更されたこともあり、自宅に近い道立札幌南高校に移り、2年生となった。同校は男子だけの道立札幌第一高校だったが、この年から男女共学に変わった。バンカラの気風が失われることを惜しむ懸念もあったが、颯爽と登校する女生徒たちの姿がすべてを圧倒した。純子の二年三組の同級生には、のちにベストセラー作家となる荒巻義雄、渡辺淳一らがいた。
学校には女生徒ばかりでなく、復員学生も戻ってきていた。彼らの中には戦争で受けた心のすさみを暴力で表現する者もあった。一方、「少国民」として教育を受けてきた生徒の中には軍国主義から戦後民主教育へ臆面もなく宗旨替えした教員に対する不信も根強かった。純子は学級委員に選ばれるが、ボヘミアン的な自由生活ぶりで、病弱を理由に授業を抜け出したり、風邪を口実に学校を休んだりすることも多かった。
絵画の師、菊地又男は道アンデパンダン運動から転進、中央の自由美術協会の札幌窓口役となっていた。純子もこの年八月、道展のライバルである第5回全道展に「夜の構図」を出品している。十月には第14回自由美術展に「少女」が入選、純子の活躍の主舞台は自由美術展となっていく。同協会の大野五郎、鶴岡政男、野見山暁治らが来札すると、菊地又男が歓迎の宴を開き、純子はモデルをして、アイドル的存在となっていく。
画家として順風満帆にキャリアを積んでいた加清純子であったが、一九五〇年十月、札幌南高校生徒会文学部の雑誌「感覚」創刊号に参加する。同誌には純子と才能を認め合っていた上野憲男もおり、顧問教師の渡部五郎を含め3人は親交を深めた。純子は「感覚」に登山体験記「雌阿寒岳を登る」を発表したが、その清冽な文体に加え、巧みな構成と臨場感あふれた描写力が評判となった。「雌阿寒岳を登る」は若山弦蔵の朗読でNHK札幌放送局のラジオ番組で取り上げられ、この放送は純子が自身の文才への自信を深めるきっかけとなった。
渡辺淳一と交際するようになったのもこの頃だ。「一日早いけど、誕生日おめでとう。明日貴方の誕生日、祝って上げる」という手紙を渡辺に送った。待ち合わせ場所は喫茶「ミレット」。札幌駅前通りが薄野交差点にぶつかる手前にあり、「紫烟荘」「セコンド」「どるちえ」などとともに札幌の喫茶店文化を代表する店であり、芸術家たちのサロンでもあった。この誕生日デート以降、二人は急速に親しくなった。
純子は美術部であったが、親友の宮川玲子(鶴田玲子)や級友の渡辺淳一が図書部にいたこともあり、「特別部員」として部室に出入りしていた。図書館は独立した建物で、校舎から渡り廊下を通って入る。この「青春回廊」を過ぎると、屋上に向けてらせん階段もあり、生徒たちは間近に見える藻岩山や豊平川を眺めて息抜きをした。図書館は放課後になると施錠され、そこに生まれる自由空間で、部員たちは文学論議に花を咲かせ、男女関係や世界の問題ついて語り合った。純子は渡辺淳一と密会することもあった。図書部には伊井温彦、小貫嘉子、桜井咲子、金沢文彦ら個性的な面々、顧問に瀬戸常夫、司書の斉藤洋子もいて、美術界にはない自由を純子に与えた。
こうした純子の文学熱を刺激した人物に姉・蘭子がいる。四歳年上の純子は早熟な文学少女だった。児童文学や短歌、俳句への造詣が深かった父・保の影響で、新興俳句運動の流れを汲む富岡木之介の俳句誌「青炎」に新鋭として参加。加清蘭、蘭女などの筆名で早くから俳句や詩、批評などを書いた。札幌時計台の中にあった市立図書館に勤め、性欲や自殺を賛美したアルツィバーシェフや自殺したガルシンなどロシア文学をよく読んでいた。姉妹は「蘭子は文学、純子は美術」で、ともに高みを目指していたが、純子はいつしか文学にも惹かれるようになった。
一九五一年に入ると、一月下旬に純子は札幌・大丸新設ギャラリーで初めての個展を開催した。師の菊地又男は純子を「自由美術協会、女流作家教会所属」の「昨秋東都の画壇に認められたアヴァンギャルド作家」であると紹介する案内状を配った。有島武郎の名作を挙げて「『生れ出づる悩み」をかくまで単的(ママ)に表現して居るのが加清さんの芸術です」との絶賛には一種の昂ぶりと偏愛のようなものを漂わせていた。六日間の会期中の入場者は二百人を超え、大成功を収めた。芳名帳には菊地又男の道アンデパンダン関係者をはじめとして、保の教育関係者、荒巻義雄、渡辺淳一、上野憲男ら札幌南高校の教師生徒、ほかに本田明二、八木保次、松本伸子、高木黄史、本間莞彩、おおば比呂司、国井澄らの画家の名がみえる。
もっとも、菊地又男をはじめとした年長者たちによりアイドルのように特別視された十七歳は、それを快く思わない人たちの嫉妬や反感を招いていた。純子の作品が写実からアブストラクトな画風へと変わったことも理解を遠のかせてしまった一因だった。高校美術展以来の純子を知る同世代の中には「個展を見たが観賞価する絵はなかった」「基礎も出来ていない」「専門家が見れば智力のない珍稀な作品だ」との批判も渦巻いていた。純子と同じく抽象画へと進んでいた上野憲男は「写実をやっているには、もう時間がない」と友人に語っており、純子も同じだったかもしれない。純子は文学への関心を深める仲で、社会や自分との対話と葛藤を積極的に表現することを意識しており、それがシュールな作風への移行を加速させたとも思われる。
個性的であり、自由行動の多い純子は同調性を拒否する代償として孤独も抱えこまねばならなかった。演じることはその痛みを避ける方法であったかもしれない。体質的に髪が赤く髪がなりやすかったのだが、自ら脱色したり赤く染めたりするとともに、赤いコート姿をトレードマークにし、病弱で赤い血を吐くと肺病に冒されているかのように装った。その一方で孤立している自らを透明化させるように、しばしば学校を休み、非在を意識させることで、存在を際立たせてもみせた。
クラスメートとの意識のズレが露わになったのは、一九五一年二月に行われたクラス対抗の雪像つくりコンクールであった。純子のリーダーシップで始まった雪像づくりであったが、最初は協力していた者たちも次第に脱落していき、最後は純子1人でスコップを手に制作に励む状況になったという。その様子を荒巻義雄がカメラに収めている。級友二人と笑顔でポーズを取る一枚が有名だが、もう1枚には純子が懸命に雪を固めている後姿が写っている。この時のものなのかは断定できないが、荒巻の写真には2階の窓から校庭を眺めている渡辺淳一のカットもある。
共同作業失敗の原因はこの世代特有のエゴイズムにあったが、一方で純子が雪像を自分の芸術作品と考え、ほかの生徒には何を作るのかを教えようとしなかったことも大きかった。純子の芸術至上主義が彼女を孤立させた。
三月になると、純子は渡辺淳一ら四人でクラス雑誌「独活の芽」を発行している。この中で、自分の名前をもじったと思われる「清瀬瞬子(舜子)」の筆名で雪像コンクールの顛末を描いた小説「偽りの作」と詩「死せる恋人に捧ぐ」、小説「「平行」の三篇を発表している。「青銅文学」が純子文学の魅力を知る宝庫であるが、清瀬瞬子の名で書かれた「独活の芽」の世界は純子の可能性を圧縮した出発点と言えるものであった。
この頃、純子は渡辺淳一とラブレターを交換している。純子のラブレターは「加清蘭子」の名が魚尾にある原稿用紙に書かれていた。純子没後に渡辺淳一と蘭子は交流を深めているが、渡辺淳一は特注の原稿を使う蘭子の存在を知っており、蘭子もまた2人の恋愛を知っていた可能性が大きい。
四月に三年生になると、純子と渡辺淳一は別々のクラスに分かれた。純子は相変わらず忙しく、同月の第五回アンデパンダン女流画家協会展に、「ロミオとジュリエット」「チルチルとミチル」を出品しており、菊地又男と上京している。一方、渡辺淳一も修学旅行で京都を経て東京に入った。純子と渡辺淳一は東京都美術館に近い上野で密会するが、親密になった半面違和感も芽生え、これを最後に二人の関係は急速に離れていった。
純子は、新聞社から原稿を依頼されるようになっていた。「自由美術協会所属」の肩書きを前面に出した絵と文の定期コラムで、「香水」「花のいのち」「夜」などを書いている。七月、第六回全道展に「獨り」を出品。八月には札幌での自由美術協会の夏期講習会で、純子がモデルの代役を買って出た。十月、第十五回自由美術展に「同類項」「無邪気な装い」を出品している。
純子の画家としての活動はその秋の自由美術北海道展まで続くが、主要な関心は文学の世界に移っていく。純子を恋人のように連れ歩いていた菊地又男との決別が大きいが、彼女の周辺に集まった文学青年たちの交流がそれを加速させた。
純子を訪ねてきたのは札幌南高校の一学年後輩の樫村幹夫と岡村春彦だった。「感覚」に掲載された「雌阿寒岳を登る」を読んで感動したので一緒に文学雑誌をやりたい、と誘った。年の離れた大人たちや嫉妬がうずまく美術界とは違って、樫村と岡村は純真さにあふれた美青年だった。樫村は地元文学界では知られた西田喜代司主宰の有力文芸誌「札幌文学」に参加しており、その青年版を彼らの手で発行しようと考えていた。
純子は親友の皆川玲子とともに「札幌文学」の例会に時折出席するようにもなった。岡村春彦のアパートを訪ねることも多くなった。春彦は東京出身だったが、兄の岡村昭彦と一緒に札幌に転住していた。昭彦は純子の四歳年上だったが、兄・準の友人でもあった。昭彦は出版社にいたこともあり、該博な知識で欧米文学の魅力を語り純子を新しい世界へと招き寄せた。「夜な夜な東本願寺付近で酒を飲む純子を見た」という噂が画家仲間の間に広まり、菊地又男との断絶の原因となった。
樫村幹夫、岡村春彦に純子が加わった同人誌「青銅文学」が創刊されたのは一九五一年十月二十日である。純子は表紙絵を描き、挿絵カットを描き、文学作品を発表した。樫村が組織者であるが、手に取れば「青銅文学」は加清純子のための雑誌のようであった。創刊号に書いた小説「一人相撲」は展覧会が迫る中で絵画を描けなくなった<私>が、豊平川の中洲で無心に石を積んで遊んでいる少女を見ているうちに創作意欲を回復させるという物語で、外部と内面の観察する姿勢と筆力を印象づけた。
「青銅文学」は息つく間もなく十一月三十日には第二号を発行し、純子は力作小説「二重SEX」を発表している。自己愛、異性愛、同性愛が渾然とした波乱に富んだ多様性の世界には華やかさと悲しみが満ちており、大胆なタイトルのこの物語は読者や批評家に衝撃を与えた。さらに、年が明けた一九五二年一月には第三号を発行する予定で、純子は愛する人からもらったと思われる時計のリズムが身体にも刻まれていくイメージを描いた「時計」という詩を入稿した。
純子の身辺を揺るがす事件が起きたのは一九五一年十二月十六日。彼女が慕っていた岡村昭彦が逮捕されたのである。昭彦は医専を中退後、革命的社会運動に参加しており、道東の釧路で無許可医療を行ったとして目を付けられていた。
一九五二年一月十六日、純子は家を出る。異変に気づいたのは弟の鍾だけだった。純子は交流のあった男性たちの家に赤いカーネーションを残して汽車に乗り、釧路へ向かった。刑務所に昭彦を訪ね、三度面会し、保釈金の相談を受ける。純子は絵を描いて売ることを考え、22日、菊地又男とスケッチ旅行に来たことのある阿寒湖畔に入る。二十三日、「阿寒湖の滝口を見に行く」と言い残し、宿泊先の雄阿寒ホテルを出た。室内には「阿寒湖風景」など未完の絵が残されていた。
純子はそのまま帰らず、 「天才少女画家」の失踪を新聞は大きく報じる。北見方面に向かったとみられたが、手がかりはなかった。一方、札幌では中心部の路上で警察官が射殺される「白鳥事件」が二十一日に起きていた。活動家である昭彦を訪ねた純子の失踪と「白鳥事件」との関連も疑われ、純子の友人宅には刑事がやってくるなど謎に満ちていた。
札幌南高校は担任教師らを捜索のため派遣するが手がかりはなく、二月十日付で純子を「家事都合」による退学とする。「青銅文学」は三月十日、第四号を発行、かつて札幌女子高校の「楡」に発表された純子の小説「無筆の画家」が掲載された。
真冬の失踪から約八十日、少し春めいてきた四月十四日、阿寒山中の雪の中から遺体が発見された。純子だった。右腕には昭彦が贈ったという金時計が鈍く光っていた。検視の結果、睡眠薬の服用があったが、死因は凍死だった。享年18。釧路で荼毘に付された後、札幌市内で葬儀が営まれた。
純子は中学時代から自殺癖があったが、ある種の激情による自己劇化の要素があり、薬物を飲んだり吐血したりするのも人前が多かった。一九五一年十二月末には学生詩人・三浦栄の北大農学部からの飛び降り自殺が大きく報道され、同世代の若者の心を揺すぶっていた。だが、純子は岡村昭彦を救う使命に燃えていて自ら命を絶つ動機は弱く、薬物は道に迷った山中を彷徨った果ての服用とも思われる。自死なのか事故死なのか謎のままだ。北海タイムスはコラムで、純子が「夢ともわかずウツツともわかぬ阿寒の吹雪に突進し、白日夢にとりつかれつつ死んだ」とし、それは「『超現実の殺人』と言える。いたましく、美しい、シュールの画家らしい最期であった」と分析している。。
樫村幹夫の尽力で、「青銅文学」には純子の遺作小説「藝術の毛皮」が三回にわたって掲載された。「天才少女画家」をめぐる物語で、姉や画家たちが登場人物で、自らをモデルにしていることは明らかだ。主人公には謎の死を遂げさせており、彼女の失踪と死を暗示していたとも言える。樫村はその後も「美の抛物線」「花の匂い」などの純子作品を掲載している。
約二十年後、荒巻義雄が『白き日旅立てば不死』、渡辺淳一が『阿寒に果つ』という純子を追想する小説を書き上げた。姉の蘭子は日野原冬子名義で加清純子遺作画文集『わがいのち「阿寒に果つ」とも』を刊行、純子の世界を伝え続けた。
加清純子が「ほうづきと日記」で天才少女画家として脚光を浴びてから「二重SEX」で新しい小説家の誕生を予感させるまで(一九四八年から五一年まで)わずか四年間であった。その濃密な青春譜は戦後反権威世代(アプレゲール)のミューズとして時代を走り続けた証左であり、輝きと残響は未だ止まない。
(公益財団法人北海道文学館編『よみがえれ!とこしえの加清純子 再び』、2022年1月22日所収)
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