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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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 かけがえのない学び舎   ―白老中学校に寄せる―

 どんなに素晴らしい学校であろうと、それを地域や共同体の一体感の象徴のように美化することは厳に慎むべきである。

 私たちの社会で学校とは、必ず幾分か抑圧的であり幾分か差別的に、重層的な諸関係の総和としてしか存在し得ないからだ。そのことはしかし、学校に対する個人の愛着を妨げるものではない。制度としての学校は同時に、人間の体験の中ではかけがえのない時間として感受される側面も持っているためである。もちろんそれは様々な個人の固有像として描かれる。

 私の通っていた一九六四年から六七年という時期は、日本の社会が東京オリンピックを踏み台に高度経済成長へと突き進んだ頃に当たっている。ツチ音高く道路網が整備され、モータリゼーションが進展し、家庭には電化製品が洪水のようになだれ込み始めていた。新しいもの、大きなもの、便利なもの――それらが時代の支配的価値として私たちの生活意識を変えつつあった。転換期の中で、その中学校はいささか古めかしく、つつましやかであった。木造の校舎は控えめながら、時代の流れに抵抗しているようでもあった。

 友情ということを大仰に考えないとすれば私にとって、潮風の香りのする教室で過ごした三年間が三十六年の人生のうちで最も恵まれた季節であったことは間違いない。身体の弱いかわり勉強好きだっただけの少年が、優れた個性を持った少年や少女たちに出会える機会など、他者を必ず距離を置いて見ずにはいられなくなった青年期以降には不可能なことであった。

 彼らはそれぞれに輝き自分というものを表現しようとしていた。そして、貧しさから出発した戦後民主主義の最も良質な部分を自らのものにしている先生もまた、少なくなかった。振り返ってみると、私は多くのことを教わっていたわけで、私にはかけがえのない学校であったろうと思っている。   
(1994年)

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