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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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短編集−魔のとき・虚ろの場  1


「それにつけても安部公房」

 それにつけても、問題は五十男である。確かに世代間の悪口合戦はエスカレートするばかりだ。コギャルは礼儀知らずで困る、オバタリアンの図々しさには呆れるばかり、じいちゃんは食事中に入れ歯を出すので嫌だetc.。だけども、不良五十男こそが吃緊の問題であると気づいた。
 ある日、その男は唐突にやって来る。「久しぶり谷口君、変わらないね」。おいおい。この十年間ご無沙汰だっただろう。なのに馴れ馴れしい口ぶりだぜ。「君とは同志だもんね」。確かに一緒に「ナンセンス」とは言ったことはあるけど、同志とは違うね。「そんなわけで今日は泊めてもらうよ」。わかったけど、勝手に他人の家の戸棚を開けて宴会を始めるなってーってのに!
 「さすがに偉くなったと見えてXOかい、いい酒飲んでるな」。やめろよ、それは大切なボトルだ。そろそろ寝ろよ。「最近は麻雀はしないのか。昔は朝までやったな」。三十年前のこと言ってどうすんの、疲れるから早く寝ろよ。「なに日和ってるんだ。こうなりゃ、とことん飲むぞ」。
 確か、君には学生結婚した美人の奥さんがいたよなあ、心配するから早く帰れよ。「いいのいいの。勝手に出て行ったから。オレはまた自由の身だ」。そんなことばっかり言ってるから、どうせ愛想つかされたんだろうよ。「何か言ったか。御託を並べる女は可愛くねえーよな」。くそ、彼女はミス・ローザなんて言われてはずだ。可愛かった。羨ましかったぞ。「その点、若い娘は思想への免疫力がないから、いいよな」。こいつの女癖の悪いのは変わらないんだ。しかも、モテるのか、くそっ。
 「そろそろパラダイムチェンジしなきゃだめだよな。おまえ、金ある?」。貸す金はありません。「冷たいな、これからは介護問題だな。まず老人ホームでヘゲモニー握んなきゃな」。舌の根も乾かぬうちにこれだ。パラチェンしてないよ、あんた。
 そこで夢から醒めた。どっと疲れが出た。ゆうべ安部公房の難解小説を読んだせいか。まったく不条理だ。世の中には結構亡霊が歩いている。そいつらは自分に足がないことに気づいていないから始末が悪い。
 「そろそろ起きてよ」。女房に急かされベッドを出て、姿見に映る自分を見た。驚いた。パジャマの下に足がなかった。


「人さらい」
 相田双太さんは「北海道ワッショイの旅」などの著書があるお祭り研究の大家である。それが、駆け出し記者の私に、単独インタビューをしないかとの指名がかかった。部長は「コネでもあるのか」といぶかったが、不思議なのは私のほうで、全く心当たりがなかった。
 所定の時間に道北のA市にある大豪邸にうかがった。丸顔の相田さんはにこやかに私を迎え入れると、「祭りはマレビトと常民の出会いの場なり」などと持論をひとしきり語った。私は圧倒される思いで聞き入った。
 インタビューが終わると、相田さんは「君にはお祭りでどんな思い出がありますか」と尋ねてきた。
 私は小学生の時の郷里での八幡神社祭を思い出した。それは思い出したくない出来事の一つだった。
 秋になると、子供みこしが町内を練り歩き、八幡神社の境内には露店が所狭しと並び、奉納勝ち抜き大相撲大会なども行われた。一番の呼び物はヒグレ・サーカスだ。兄と二人でオートバイショーに熱中した。日が暮れかかっていた。帰ろうとすると、誰かが私の手をつかんだ。鬼のような顔をした大人だった。
 「離して」と私が言うと、鬼男は「いやだね」と笑った。そして、「可愛い子だな。一緒に来るんだ。逃げても必ず捕まえるぞ」と、気味の悪い声で言った。
 「いやだ」と叫び、兄に手を引かれ走り出した。鬼男はどこまでも追いかけてきた。兄が持っていた癇癪玉を投げつけた。すると、鬼男は立ち止まり事なきを得た。家に戻ると、私の腕には鬼男の手形が残っていた。
 それから二十年になる。兄は原因不明の事故で亡くなったが、私の腕の鬼の手形はまだ消えていない。
 「珍しい話だね」と、相田さんは感心した様子だった。 「その傷を見せてくれませんか」と言うので、私は話を喜んでくれたのがうれしくて、シャツをめくった。
 「どれどれ、どんなかな」
 相田さんは、私の腕を取った。その瞬間、瞳の奥で邪悪なものが光ったのに私は気づかなかった。
 「全く変わっていないな」
 相田さんは、腕の手形を見ながら呟くと、自分の手を伸ばした。すると、傷が相田さんの手に重なった。
 「あっ」と私は小さな声を挙げたが、遅かった。
 「逃げても必ず捕まえると言っただろう。お兄さんには気の毒なことをしたよ」
 相田さんの丸顔は、みるみる鬼男に変わっていった。
 「人さらい!」
 そう叫んだ瞬間、あたりは八幡神社祭の真っ最中。私は兄とサーカス見物の小学生に戻っていた。


「ピアス」
 怖い話って、いっぱいありますよね。
 僕は気が小さいし、人を脅かすことは嫌いです。だけど、仕事柄、耳に入るんです。因果な商売ですよ。
 耳―と言えば、ピアスの話は有名ですよね。えっ、知らないですか。じゃあ、ちょっとだけ。
 最近はピアスも耳ばかりじゃなく、おへそや鼻、唇や舌、下腹部にまでするらしいですね。金原ひとみさんの芥川賞受賞作「蛇にピアス」読みました? あれは本能というブレーキが効かなくなった身体改造の物語です。もちろん、ピアスがジェノサイド(皆殺し)につながっているなんて飛躍したことは言いませんが。
 人間は装飾品をつけたがりますよね。それは人間の進化が知性の方向に進むのに反比例して、身体が貧しくなったからだと思うんです。
 孔雀にしても虎にしても野生の動物は美しいですものね。人間は立派な服を着ることでコンプレックスを解消したいのです。それがラジカルに表現されると身体そのものへの自傷行為になる。タトゥーっていうんですか、刺青が典型です。ピアスもその一種でしょう。それは退廃じゃなくて、人間の本質なんです。
 能書きが長くなりました。これからが本題です。そんなわけで、ピアスなんて今じゃ珍しくないですよね。
 それで、ギャルっていうんですか、ある女の子が親に内緒でピアスをしてみることにしたそうです。
 「ちょっと痛いだけよ。すぐ済むから」って、友達に言われて、女の子は冷やした耳を差し出しました。
 「じゃあ、開けるわよ」「うん」
 パチリ。
 「あっ、痛ーい」
 「大丈夫、もう終わったわよ」
 そう友達が言うと、女の子が答えるんだそうです。
 「ここはどこ? 私は誰?」
 耳にピアスの穴を開けた瞬間に、記憶がなくなったのです。あっ、まだ終わりじゃない。
 この話には続きがあるんですよ。女の子が友達に送られて家に帰って、お母さんに言うんです。
 「ワタシ、記憶を失ったみたいなの」
 すると、お母さんが答えます。
 「それは大変ね、で、お嬢さん、あなたは誰?」
 よく見ると、お母さんの耳にもピアスがキラリと光っていたそうです。
 心配いりません。そんなことめったにありませんから。発症するまでに時間がかかる例も多いそうですし。
 実際、僕も最近ピアスをしたばかりなんですよ。
 「で、あなたって、誰でしたっけ?」


「パパとあたし」 
 きょうパパが死んだ。深紅の鮮血を流して―。
 あたしも遠からず、後を追わされるのだろうか。あたしは「パパのばか!」と叫びたかったけれど、言葉にならず、悔しくてただ唸っているだけだった。
 あたしはもらわれっ子だ。血筋もよくない。
 前の家で持て余されたが、やさしいパパが「可愛い女の子じゃないか」と引き取ってくれた。うれしかった。ああ、あたしは一人で死んでいく運命なんだ。そう覚悟していただけに、パパを誰よりも大好きになった。
 パパには奥さんがいる。でも、「もう、僕らはおしまいなんだ」とパパはいつも言っていた。ママは何かあると「浮気癖が治らないこの世で最低のダメ男」と罵る。だから、夜もパパが抱いて寝るのは、あたしだ。ママとは寝室も別なの。あたしは申し訳ない気がしたけれど、パパと一緒だと心が安まった。
 パパは散歩が好きだ。いつも夕方になると、あたしを連れて、近くの石狩川堤防に行く。そこには女性が良く来ている。パパはママには見せない笑顔になり、あたしを一人にして、女性と親しげに話している。
 「早く別れてよ」「大丈夫だから」
 そんな話を小耳に挟むと、あたしは少し不安になる。いつか恐ろしいことが起こらなければいいのだけれど。でも非力なあたしには何もできはしない。
 女性はいつも可愛い男の子を連れている。彼はあたしに気があるようで、あたしの体を触ろうとする。
 「ねえあんた、それってセクハラだよ」
 注意すると、少し済まなそうな顔をするが、また近寄ってくる。そりゃあ、好意を持たれることは悪い気はしないが、限度がある。男の子は野球が好きだ。唸ったり歓声を挙げボールとじゃれる。ボールに夢中になると、あたしのことなど忘れてしまう無神経さがいやだ。
 道北のA市に雪虫が飛び始めたある日。パパはあたしを連れて、あわてて家を出た。石狩川堤防には案の定、いつもの女性が待っていた。
 「二人で逃げよう」とパパの声。
 だが女性は「うん」と言わず、ためらっている。パパが振り向くとママがいた。手に光るものがあった。「あぶない!」。気づいた時には、鋭い刃物がパパの心臓を貫いていた。血しぶきを上げて崩れ落ちるパパ。
 ママは女性と顔を見合わせ、「不倫が原因の事件なら情状酌量だわ。保険金は山分けよ」と言い放った。
 二人はつるんでパパを陥れ殺したのだ。あたしは怒りで気が狂いそうだった。精一杯唸ったけれど、二人の女たちは、あたしを小馬鹿にして足蹴にした。
 「うるさい雑種の子犬だこと。早く捨てようよ」


「魔法の時計」 
 「君は時間にルーズだ。管理職失格だぞ」
 会社に着く早々、社長の雷が落ちた。私は「すいません」と謝ったが、悔しさでいっぱいだった。
 「叱られたのかい」
 買物公園でだれかの声がした。目をやると、見慣れぬ露店があった。店主はパンダのような顔をしている。
 「十五分遅れただけで、怒られまして」と私。
 「それは可哀想に。この魔法の時計をあげる。これをつければ、もう時間に遅れることはないよ」
 「本当ですか。信じますよ、ありがとう」
 私は藁にもすがる思いで、時計に手を伸ばした。お金を払おうとしたが、魔法使いのパンダは受け取らない。「使い方だけは間違えないでよ」と厳しく言った。
 その時計は、長針と短針、それに秒針だけのシンプルなデザインだ。
 私は「午後八時に帰宅するぞ」と、時計を見ながら思った。だが、いつもの癖で雑貨屋や古着屋などを冷やかしてしまった。時計を見たときは七時だったので、家に着いたのはとうに九時を過ぎているはずだった。
 ところが、である。時計を見ると、ぴったり午後八時だった。不思議なことがあるものだ。
 それからはすべての行動が時間どおりになった。時計を見て「正午までに仕事を終わるぞ」と思うと、どんなにたくさんの作業があってもきれいに片付く。「午後七時の汽車に乗る」「午後八時の音楽会」etc.。
 なんでもジャスト・オン・タイムだ。
 それならば、と私の中に怠惰の虫がうごめきだした。思いっきり寝てから、昼ごろに会社に行くことにしたのである。どんなに遅くても朝帰りでも、十二時間くらいは熟睡する。それでも「午前九時出社」と時計に念じれば、ちょうど午前九時に会社に着くのである。
 社長は「偉いぞ。最近は遅刻しないな」と呆れ顔半分で誉めてくれる。ふふふ、いい気分だ。
 そのうち、私は会社に行かなくなった。
 「私が行くまで、どうせ午前九時は来ないんだから」
 私は何日もぐうたらで過ごした。幾日たったかも忘れたころ、そろそろ会社に行ってやろうかと思った。
 「九時に会社」。そう念じて家を出た。だが、いつまで経っても会社に着かないのだ。歩いても歩いても着かない。ついに苦しくて泡を吹いて倒れた。欲望の赴くまま使い方を間違えたから、天罰が落ちたに違いない!
 自分を悔いながら、かすむ眼で時計を見た。バンドに「使用上の注意」の小さい文字。くそっ!
 「電池が切れれば止まります。 魔法の時計」


「消えた学校」
 「うひゃあ、こんな手紙が来ていたなんて!」
 カエル顔の八柳デスクが素っ頓狂な声をあげた。
 それは「新聞の勉強をしたいから出前講座の講師を派遣してほしい」という学校からの依頼状だった。「×月×日」と書かれた期日は、もう明日に迫っている。
 「部長なんとか」と八柳に泣かれて、「雑文雑用よろず承り役」の私は、やむなく覚悟を決めた。
 T小学校はA市の郊外三十キロ、クマの出そうな山の奥懐、開拓農家が点在する集落の中心にある。
 「櫛の歯が抜けるように、人口が減りまして」と、校長兼担任が「ノー政」を怒るともなく寂しく笑った。
 たった一つの教室に六人の子供全員を集め、私は新聞が社会に果たしている役割を説明した。
 一人の少年が新聞を広げた。それは四年前の日付で、一面にNYテロの活字が躍っている。
 「これからどうなるの」。子供たちが口をそろえた。なぜかイラクでの戦争開始を知らないらしい。
 ひと休みしてトイレに行こうとしたら、薄汚れた放浪児のような少女が階段の手摺りの上に立っていた。
 「きみ、危ないぞ」と私が言うと、「おじさんこそ、怖くないの? 一人でいて」などと妙なことを言う。
 「どうして、みんなと一緒に勉強しないんだ」
 「あんたは住む世界が違うって、遊んでくれないの」
 少女は肩を落とした。私は教室に戻った。
 子供たちに注意したが、「あの子は肝腎な時にいないから、仲間じゃない」と、誰も反省する様子もない。
 その日は宿泊研修の日で、私も保健室に泊まることにした。風が出てきたらしく木々の搖れる音がする。
 窓辺では、少女らしい人影が私に手を振って、「早く帰れ」という仕草をする。うるさいことだ。
 寝かかった時に、携帯電話が鳴った。八柳だった。
 「部長、無事ですか?」
 「こんな夜中に迷惑だぞ」と私は腹を立てた。
 「大変ですよ。手紙を調べたら、日付は四年前の今日でした。学校はもうないんです。出前講座の日に大風から火事になり、行方不明の少女一人を除き泊まっていた全員が亡くなり、廃校になったそうです!」
 四年前? それならばイラク戦争を知らない子供たちも、住む世界が違うと言う少女も合点がいく。
 しまった!逃げねば。私は部屋を出たが、遅かった。廊下は既に紅蓮の炎に包まれている。
 眼前には、あの少女が浮かんでいる。封じ込められて地縛霊になった開拓農家の最後の使者とわかった。
 みんなまぼろし―。その言葉で学校と集落は瞬時に廃墟に変じ、少女はこの世ならぬ声で笑い宙を飛んだ。


「忘れ物」 
 恋をしてますか? 
 私と別れてから「ビタミン愛」は足りていますか? どうぞ楽にして、怖がらずに聞いてくださいね。これは怪談なんかではなく、ラブストーリーですから。

 昔むかしのことです。
 あるお宅で、お嫁さんが重病になった。命の火が今にも消えてしまうのではないかというほどの深刻な状態の中で、お嫁さんが口を開いた。
 「夫に会いたい」「夫に会いたい」
 うわごとのようにせつなく言い続けているのを聞き、姑(しゅうとめ)は不憫に思った。実は亡くなった息子はやくざ者で、さんざん放蕩の限りを尽くして、苦労をかけた嫁を一人残したまま死んでいたからだ。
 せめて嫁の願いを叶えてやれないか。そう考え、姑は高名な霊能者を頼んだ。
 「息子を呼び戻せますか?」と聞くと
 「この世に忘れ物があればね」と霊能者は答えた。
 忘れ物? 
 姑は少し考えてから、あることを思いついた。
 やくざ者の息子はあるトラブルで指を詰めていた。その指がひょんなことから返され、自宅の小箱に入れて大切に残してあったのだ。
 そこで、息子が戻って来るように、霊能者に祈ってもらい、指の入った小箱を嫁の枕元に置いた。
 すると翌朝。事態は一変した。
 危篤だったはずの嫁が、明るい声で言った。
 「きのう、夫が戻ってきたの。そして、オレの指を大事に預かってくれてありがとうですって」
 姑が小箱の中を見ると、小指は無くなっていた。
 「ああ、これで嫁も元気になるだろう」
 姑がお礼を言ったが、霊能者は「さて、どうでしょうか」と曖昧に答えるだけだった。
 そして、翌朝―。あんなに元気な表情が戻ったはずの嫁が、ぽっくりと亡くなってしまった。
 「どうして、こんなことになったのかしら」
 姑は悲しい結末を嘆いた。
 すると、霊能者は諭すように言った。
 「これが定めです。息子さんは、一番大切な忘れ物を持ち帰っただけですよ」
 そんな愛もあるのですね。これで私の話は終わり。

 では、そろそろ、参りましょうか。
 だって私も、一番大好きだったあなたをこの世に残してきたのが、ずっと心残りだったのですよ。   
 

「カメラマン」
 南野さんはベテランのカメラマンである。
 頑固な職人肌でいて、とても愛想がいい。
 「元気なお年寄りだから、なんとか逆立ちポーズにさせてほしい」とか、「美人を鼻にかけている女優さんだから、ピンぼけで撮って」などと、無理難題に近いインタビュー写真をお願いをしても、「まかせてチョンマゲ猿飛佐助」と二つ返事で引き受けてくれる。
 特に動物写真が上手だ。空飛ぶペンギンや水中回廊でおならをするアザラシ、木の上で懸垂して腹筋を鍛えるヒグマ、空中散歩時にジャンプするオランウータンなどを撮り、新聞の一面を飾ることがしばしばだ。
 きょうは、ホッキョクグマのイワノフ君との架空インタビュー写真をお願いした。私が聞き手でありながら、同時にホッキョクグマにも成り切るというものだ。
 たとえば「動物園は大人気って言うじゃない、最近はどうよ?」と私が聞く。
 するとイワノフ君が「ダメだね。流行だからって来るので、まともにボクらの暮らしぶりを見てくれないの。だから時々、手抜きしちゃうわけ。お客も素人だから、分からないと思うけど」などと答えるという具合だ。
 もちろん、全部うそだよ。
 でも、南野さんはイワノフ君をどう撮るのか。
 「魔法をかけるんだ」
 「えっ?」と、私が聞き返す間もなく歩き出した。
 水槽の前に来ると「じゃあ、お願いガチョーン」と、私にホッキョクグマのぬいぐるみを着させた。
 「それではカメラを見て、ハイさおじさん!」
 気がつくと、私はホッキョクグマになっていた。
 南野さんに言われるままにボールに乗ったり、逆立ちしたり、水中ダンスまでしている。
 そんな意のままに操られる自分が情けなかった。
 「もう一度! カメラを見てゴラン高原」
 言われて、またポーズを取った瞬間、私は着ぐるみの中の自分に戻っていた。
 「何か変なことしなかった?」
 「なーんにも」
 「だって、催眠術にかけられたみたいだったよ」
 「昔、先輩はカメラで魂まで吸い取ったんだ。それに比べりゃ、まだマダガスカル島」と南野さんは舌好調。
 「今度は木から落ちるサルを撮ろうかニャンコ」
 ニヤリと笑うと、カシャリとシャッターを切った。
 一瞬の空白。キャッキャッ。木の下で体が痛痒い。
 「さあ、餌だぞ。もぐもぐタイムだよ」
 飼育係が窓にハチミツを塗りつけた。仲間に遅れるものか。ありゃ。私は全力でサル山を駆け降りている。


「ついてない男」
 大森さんは「ついてない男」だ。あの才能に、ヨン様似の美男子ぶりなら、もっと幸運なはずなのに―。
 「宝くじが当たった。一等三億円だ!」
 大森さんがスナック「ローズ・ガーデン」で大騒ぎしたのは一カ月前だ。「みんな好きなだけ飲んでいいぞ」と気前よく叫んだ時、「ちょっと待って。それははずれくじよ」と冷たく言い放ったのは美人ママだった。
 「はずれなもんか。ほら、12組345678だ」
 力み返る大森さんに、「最後の8をよくご覧なさい」とママがダメを押した。そこで、宝くじを手に一同で「8」をよく見ると、大森さんの血相が変わった。
 「こ、これは…」
 「8じゃなく、6よ。8に見えるのは、あなたがニシン漬けにかけた醤油の染みよ!。高血圧なんだからね、あれほど塩分はよしなさいと言ったのに!」
 三億円長者の夢は、そんなふうに一瞬で消えた。
 大森さんはパチンコで逆襲を狙った。だが、リーチはかかるが、はずれる。「えーい」と、最後の五百円玉を入れた時、奇跡が起こった。フィーバー。しかも確率変動。連チャンの嵐だ。出玉も二十箱を超えた。
 「今日は大勝」と、大森さんが喜んだ時、突然、停電した。「痛い」と女性客の悲鳴が挙がり、人の倒れる音とパチンコ球が転がる音…。明かりがつくと、出玉の箱はどこにもない。頼みの店員も消えてしまった。
 聞けば、大森さんは世が世なら東京支店長のエリートらしい。だが、会社の抗争に巻き込まれ、名もない東北の小島同然の出張所に飛ばされ、いくらなんでも可哀想だと、やっと旭川に戻されたのだそうだ。
 奥さんは美人だが、性格がきつく、大森さんは頭が上がらない。浮気現場を押さえられ、どこかの毛を剃られてしまった、夜間外出時は一時間ごとに電話せよと言われているらしいと、酒場スズメは噂する。
 大森さんが買物公園を歩いていると、「相談ごとなら任せて」と、声がした。パンダ顔の占い師だった。
 「じゃあ、どうして私は運がないのですか?」
 大森さんが尋ねると、パンダは「こうすれば判るよ」と、大森さんの顔を思いきっりつねった。
 「痛ててて」と叫ぶのも意に介さず、「ほらほら」と、パンダは何度も何度も顔を引っ張る。そのうち顔の裂け目から、何か黒いものが飛び出したように見えた。
 「あれは?」と大森さんが聞くと、パンダは
 「欲の皮の突っ張った貧乏神さ!」と笑った。
 それから一カ月―。買物公園のパンダはどこかに消え大森さんの顔は腫れたままだ。宝くじは一万円当たる程度、パチンコもぼちぼち。でも、冷たかった美人ママが少し優しくしてくれるのがうれしい大森さんである。


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