資料:なかにし礼さんの方へ
新聞小説連載のための なかにし礼 紹介
激動の昭和を破滅的に生きた兄への愛憎を哀切を込めて描ききったこん身のレクイエム『兄弟』、そして無償の愛に生きた丸山芸者の一途な姿を描いた直木賞受賞作『長崎ぶらぶら節』―。一作ごとに新たな境地をひらきつつある作家なかにし礼さんが小説『てるてる坊主の照子さん』の連載を始める。なかにしさんの新聞小説執筆は今回が初めて。直木賞受賞後の実質的な第一作にあたる連載への抱負を聞いた。
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作品は庶民のまち・大阪を舞台に、苦しいときも希望を忘れない《肝っ玉母さん》を中心とした一家が明るく強く生き抜いていく姿を描く。
「昭和三十年代の日本とともに上昇した、家族の物語である。一種のサクセス・ストーリーかもしれない。スケールの大きい母親と、ちょっと人のいい父親、そしてそれぞれの夢に向かって成長していく四人の娘たち。そこにいろいろなドラマが起きる。めざすは笑いと涙と感動の《浪速の若草物語》というところか」
「若草物語」は南北戦争時代の米国を舞台に家族の大切さを描いたオルコットの名作。その感動に通じる物語が始まろうとしている。
当初は恋愛ものや幕末の商人を主人公にした時代ものを書く気持ちもあったという。だが、考えに考えた末に、コメディータッチとなる本作にたどりついた。
「今回の連載については直木賞受賞後の第一作という意気込みがあった。『兄弟』『長崎ぶらぶら節』そして旧満州(現中国東北部)を舞台にした『赤い月』(新潮社から上下本で近刊)と書き続け、ここで新境地をひらきたいと思った。矢継ぎ早の大阪弁が縦横に飛び交う、ユーモア小説、そして女の一生。日本の文学史に流れる滑稽小説の本流を歩いてみたいと思った」
本作の直前まで大作『赤い月』の最終チェックに追われていた。とはいえ、その忙しさの最中にも、登場人物や背景のイメージを固めるため大阪を訪れるなど、満を持しての執筆となる。
「基本舞台は大阪だが、主人公・照子さんの古里は九州・福岡であり、スポーツ界や芸能界で活躍する娘たちは東京―といった具合に、舞台は広がっていく。終戦直前から戦後の混乱期、そして東京オリンピックと高度成長へと時代は移る。力道山のプロレスで沸き返っていた昭和三十年代の日本も哀歓込めて描きたい」
旧満州から引き揚げてきた少年時代、シャンソンの訳詞を始めた青春時代、「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」で三度の日本レコード大賞というヒットメーカーの作詞家時代。そして気鋭の作家としての現在。新作に挑むなかにしさんの心に去来するものは何か。
「翔べ、わが想いよ 金色の翼にのって」(ヴェルディのオペラ「ナブッコ」の一節)という言葉を好むなかにしさんは、「永遠なるものへの畏れを持つ人だけが、想いをその翼にのせて翔ばすことができる」と語る。さまざまなものが崩壊しつつある今、なかにしさんはたくましく生きる家族像を通じて、私たちに対し自分には金色の翼があるのだということを教えてくれるに違いない。
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なかにし・れい 一九三八年生まれ。「知りたくないの」で作詞家としてデビュー。日本レコード大賞受賞曲のほか、「石狩挽歌」「時には娼婦のように」など傑作多数。自伝的小説「兄弟」で作家デビュー、二作目の「長崎ぶらぶら節」で第百二十二回直木賞受賞。神奈川県逗子市在住。(なかにし礼は二〇二〇年十二月二十三日死去、享年八十二歳)
(新聞小説「てるてる坊主の照子さん」の作者紹介文、2001年4月
■講師・なかにし礼さん紹介
「あなたの過去など 知りたくないの」―。歌手・菅原洋一をスターに押し上げた名曲の生みの親が、この人だ。シャンソンの訳詞から出発し、作詞家として次々とヒット曲を作り出してきた。「天使の誘惑」「今日でお別れ」「石狩挽歌」「時には娼婦のように」「北酒場」――。
一世を風靡した歌謡界を離れて、オペラの作・演出やクラシック分野での活躍が目立っていたが、小説家へとドラマチックに転身した。小樽に育ち、増毛の浜でのニシン大漁も夢破れ、激動の昭和を破滅的に生きた兄への愛憎すべてを哀切込めて描ききったレクイエム『兄弟』(文春文庫)。「兄貴、死んでくれて本当に、本当にありがとう」との最後の言葉は鬼気迫るものがあった。そして無償の愛に生きた丸山芸者の一途な姿を描いた『長崎ぶらぶら節』(文藝春秋)で第百二十二回直木賞受賞、作家の地位を不動のものにした。
都会的でモダンな恋愛詩に定評があるが、華やかさの陰には時代に雷同しない《異邦人》的複眼が光っている。「私は亡郷の民である。根無し草である。母国にありながらも、かすかな外国人である(中略)日本のどこにも、わがふるさとと呼ぶにふさわしいところはなかった」(『翔べ! わが想いよ』=文春文庫)という痛切な魂の飢え。それを慰めるものが、音楽であり、文学であった。
実母をモデルに戦争に翻弄されながら極限下を生き抜いた旧満州での逃避行をたどった渾身の長編『赤い月』(新潮社)は、ルーツに迫る書かれるべくして書かれた自己凝視の産物であったろう。
真剣勝負のクリエーティブな世界の最前線に大輪を咲かし続けるエネルギーの秘密はどこにあるのか?
「人間は一人で金になることはでけへんのや。一人の人間ともう一人の人間が協力しあうと、相互作用という化学変化が起きて、その力のお陰で人間は金になるんや」―。四月まで北海道新聞朝刊に連載された小説『てるてる坊主の照子さん』(七月に新潮社から出版予定)の一節だ。家族という人間関係によってもたらされる真の自己実現という奇跡、すなわち《魂の錬金術》こそ、なかにしさんのメーンテーマである。
繊細でシャイなイメージだが、意外にも若い時は柔道青年だった。幾度かの病気を経験してからは健康に留意、ゴルフなどで気分転換を図る。
一九三八年、旧満州(現中国東北部)牡丹江市生まれ。立教大学仏文学科卒。最近はテレビのコメンテーターとしても活躍中。神奈川県逗子市在住。六三歳。
(2002年5月の講演会用の講師紹介文)
■【資料】「てるてる坊主の照子さん」の作者 なかにし礼さん
激動の昭和を破滅的に生きた兄への愛憎を哀切を込めて描ききったこん身のレクイエム『兄弟』、そして無償の愛に生きた丸山芸者の一途な姿を描いた直木賞受賞作『長崎ぶらぶら節』−。一作ごとに新たな境地をひらきつつある作家なかにし礼さんが小説『てるてる坊主の照子さん』の連載を始める。なかにしさんの新聞小説執筆は今回が初めて。直木賞受賞後の実質的な第一作にあたる連載への抱負を聞いた。
作品は庶民のまち・大阪を舞台に、苦しいときも希望を忘れない《肝っ玉母さん》を中心とした一家が明るく強く生き抜いていく姿を描く。
「家族の物語、それも一種のサクセス・ストーリーにしたい。スケールの大きい母親と、ちょっと人のいい父親、そしてそれぞれの夢に向かって成長していく四人の娘たち。そこにいろいろなドラマが起きる。めざすは笑いと涙と感動の《浪花の若草物語》というところかなあ」
当初は恋愛ものや幕末の商人を主人公にした時代ものを書く気持ちもあったという。だが、考えに考えた末に、コメディータッチとなる本作にたどりついた。
「直木賞受賞後の第一作になるので、失敗は許されないという意気込みがあった。ただ『兄弟』『長崎ぶらぶら節』そして旧満州(現中国東北部)を舞台にした『赤い月』(新潮社から上下本で近刊)と書き続けてきて、作家的には煮詰まるというか、緊迫感が高くなりすぎそうだった。ここで気分転換して、違う傾向の作品で勝負してみたいと思った」
小説は現実ではなく、もちろんフィクションであるが、《浪花の若草物語》となると当然、夫人(元歌手の石田ゆりさん。姉は歌手いしだあゆみさん)の実家が主人公たちのモデル。既に舞台化の話もあり各方面に話題を呼びそうだ。
「大阪の物語ですが、親の古里は九州・福岡だし、スポーツ界や芸能界に進む娘たちは東京へ出ていくわけで、舞台は広がっていく。終戦直前から戦後の混乱期、そして東京オリンピックと高度成長へと時代は移る。力道山のプロレスで沸き返っていた昭和三十年代の日本も哀歓込めて描きたい」
旧満州から引き揚げてきた少年時代、シャンソンの訳詞を始めた青春時代、「天使の誘惑」「今日でお別れ」「北酒場」で三度の日本レコード大賞という前人未到の売れっ子作詞家時代。そして気鋭の作家としての現在。新作に挑むなかにしさんの心に去来するものは何か。
「翔べ、わが想いよ 金の翼にのって」(ヴェルディのオペラ「ナブッコ」の一節)という言葉を好むなかにしさんは、「永遠なるものへの畏れを持つ人だけが、想いをその翼にのせて翔ばすことができる」と語る。さまざまなものが崩壊しつつある今、なかにしさんはたくましく生きる家族像を通じて、私たちに対し自分には金色の翼があるのだということを教えてくれるに違いない。
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なかにし・れい 1938年生まれ。「知りたくないの」で作詞家としてデビュー。日本レコード大賞受賞曲のほか、「石狩挽歌」「時には娼婦のように」など傑作多数。作家に転じ、「長崎ぶらぶら節」で第122回直木賞受賞。神奈川県逗子市在住。 (2001年4月)
*なかにし礼さんは2020年12月23日ご逝去。82歳。