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 何を読んだか 1989

 某月某日 竹内実『毛沢東』(岩波新書、五二○円)を読む。天安門事件以降ますます中国への一般的関心が高まっている。本書もそうした流れの中で登場した一冊といえる。もちろん竹内氏は長いキャリアを持つ優れた中国研究家であり、この本もそうした実績の上で、毛沢東の実像を冷静に実証的に描き出している。竹内氏の毛沢東論の結論はつぎのようなものだ。

》毛沢東の生涯を眺めると、右、左へのゆれはない。
 「百家斉放、百家争鳴」から、一転して反右派闘争など、政策の急激な変化はみられるが、これはかれにとって転向を意味しないようにおもわれる。あたかも、コンパスを立てて、その立脚点はうごかさず、つぎつぎに大きな円を描いたような生涯であった。左へのゆれとみえることがあったとしても、それはこの同心円の拡大であった。
 新しい円はまえの円よりも大きくなるが、中心の一点は不変であった。その一点は、かれの表現をかりるなら「本源」であって、かれはここに「階級闘争」をはめこんだ。
 コンパスの足はしだいに拡大して、長沙市内の労働運動から農民運動へ、ゲリラ戦へ、土地改革へ、ソビエト区建設へ、整風運動へ、新国家建設へ、ソ連との論争、訣別へ、文化大革命へと大きくなったが、この立脚点の針の先は、しっかりとささっていて、動かなかった。

 私達はいまや誰でも毛沢東を批判することはできる。これは掛け値無しによいことである。しかし、私達がもし中国革命を主体的に担わなければならなかったとしたら、はたして、どのような路線を展開できたか、自信はない。このことはやはり掛け値無しにつらい。この国にいる毛沢東主義者はすべて愚か者といってよい。だが、この国にいる毛沢東批判者もまた大半はその過ちから免れているかどうかは疑問である。
 世界史は非情なものでどんなに優れた人間でも自らの試行錯誤のはてにようやく誤謬をかかえた貧しい理論を作り出さなければならないこともあるし、どんなに愚劣な人間でも先人の蓄積の上にわずかな工夫を加えるだけで最先端の独創を気取ることもできる。極楽トンボの群れよ。さみしいことである。
 桑原史成『報道写真家』(岩波新書、五五○円)。水俣、韓国、カンボジア・ベトナムで、ファインダーを通じて現代史を活写してきた著者の一種の記録ノート。氏の記録者としてのヒューマニズムと報道者としての特権意識のようなものがよく伝わってくる正直な本である。(同書はのちに、表現に不適切なところがあるとして初版本回収の運命をたどった。食肉処理関係の労働者の主張はもっともであるが、個人的にはそういった欠陥を含めて、報道写真家の実像を知るには格好の書物と思ったのだが、残念なことではある)
 キャシー清原(梨元勝監修)『スチュワーデスの観察日記』(評伝社、九八○円)。例によって有名人のゴシップを飛行機内でのふるまいをスチュワーデスがばらしてしまうという設定で書いた実話物(実はうそ物)。話半分のデタラメと知っていても読んじゃうんだから、おれもこの手の話がすきなんだねえ。女性週刊誌やワイドショーの悪口が言えません。

 某月某日 小室直樹『中国共産党帝国の崩壊』(光文社、七二○円)。いささかヒステリックになるのが玉に傷だが、物知りおじさんによる中国総括。おじさんがいうには現代中国の病気は三つの根本原因による。「近因はスタグフレーション(不況なのにインフレが進む)、中因は人民なき人民革命、そして遠因は五千年来の中国の歴史である」。宇野経済学流に言えば、本質論−実体論−現状分析というところか。当たっていると言えば言えなくもないが、どうにもところどころ頭のヒューズが飛んでしまうので総論よくても、各論ではうそばかり。
 要するに中国にはアメリカのような近代的な意識を持った人民などいない。それなのに「人民中国」と言うのは虚構でしかない。中国はちっとも変わっていないよ−というのが小室氏の結論だ。違うね。少なくとも中国は変わろうとしたし、変わった。勿論、長い封建的な諸関係とそれに規定された後進的な意識は残ってるさ。そのことがすべてではないさ。日本軍国主義との長い戦いは何だったのか。何も変えなかったとでもいうのかね。そんな超歴史主義じゃ、日本についても日本人は天皇を中心にして建国以来変わっていない、とでも考えているんじゃないのかな。なるほど小室先生は右翼だ。
 山内雅夫『世界を操る黒魔術の呪い』(光文社、七○○円)。すごい本だ。目次だけでもすごい。「黒魔術が科学技術を叩き潰す」「アメリカを操る霊界のプログラム」「最後の黒魔術国家・ハイチの謎」「第二次世界大戦の陰の演出者たち」などなど。これは、いわゆるUFOものと並んで、類推を事実におしつけることによって何かをいったつもりでいる典型。しかも予言と事実が全くバラバラのレベルで(レベルを無視して)比較されるところが、全くでたらめとしか言い様がない。と、言いつつ読むのはこの手の本はサービス精神がいっぱいのところが、下手な小説を読むより楽しいのだ。

 某月某日 中沢新一『野ウサギの走り』(中公文庫、五六○円)。中沢君の神秘主義はデビュー作の『チベットのモーツァルト』をから一貫したものであるが、いつもどこかうさん臭さがあった。しかし、心身のフットワークの軽さと現代的な感性はただならぬものがあると改めて感心した。「野ウサギの走り」とはよくいったものだ。

》前近代モデルのなかでは、「聖なる動物」を殺害する供犠は、ミスティックを天上に引き上げ深層に封印し、生の世界に垂直性をもたらす働きをもっていた。けれど、北海道に現れた背中に星印をもつ一匹の羊(のスピリット)を殺すことは、その反対に、全体性のパラノイアを消滅させ、凡庸さとミスティックが同一平面で同居しあっているような水平的な世界を積極的につくりだしていく方向をむいている。そして、実を言うと、今日の若者文化のなかに生まれつつある新しい宗教的な感性も、この凡庸さとミスティックの同一平面上の同居という事態と無縁ではないのである。(「逃亡者のための神秘主義」)

 これは村上春樹『羊をめぐる冒険』に触れた文章の一節だが、大変よく分かる。私達は現在、どう考えても垂直的な支配(ファシズム=スターリニズム)へ退行することは禁じられている。しかし、ならば、人間的生に付随するミスティックなものが、どういう運命をたどるかは極めて新しい状況にさらされていると言っていいだろう。それが、若者を中心にした何回目かの宗教ブームといわれるものに対応しているのかどうか。中沢君の考察は示唆的である。

 某月某日 しりあがり寿『おらあロココだ!』(白泉社、八○○円)。かねてTBSの金平氏より「天下の傑作なり」と教示されるも、余り気にもしていなかった名作漫画だ。面白い。パロディーとかナンセンスとか絵が誰某に似ているとかは、どうでもいい。この漫画を読んでいない人には伝えにくいのだが、要するに作品の中に流れているのは、意識的か無意識的かはよくわからないが、「意識としてのアジア」とでもいうべき日本的な心情である。手前にロココの世界があれば遠くには富士山がある、ロックの歌声のバックには演歌がある、というような。それは中沢君の本を読んだ後なのでそう感じるのかもしれないが、若者たちのミスティックな心性が置かれている場所をよく描いている。
 清水義範『青春小説』(講談社、九五○円)。『国語入試問題必勝法』『金鯱の夢』など、痛快な小説を書きまくっている著者が、今回はいささかリリカルに、就職を控えた地方学生が東京の町をさまよい歩く姿(「灰色のノートから 、 」)と昭和四三年に発生した三億円強奪事件の世界にタイムスリップしてしまったパッとしない編集者二人の物語(「三億の郷愁」)が描かれている。どちらも一種自伝的であるが、同時に誰もが通過する青春時代を題材にしていることで、共感にも似た広がりを獲得しうるように見える。それにしても、私達もまた、もう一度、青春をやり直せるならば、もっとうまくやれたはずなのにと思うことが多い。実際にはそれは現在に対しても過去に対しても二重に誤った態度なのだが「それでも」という未練の中に、いわゆる多くの「青春小説」は成立している。

 某月某日 佐高信『日本の権力人脈』(潮出版社、一二○○円)。経済ジャーナリストによる日本財界診断書というところか。経済ジャーナリストの半分は心にもないヨイショ記事を書いているが、佐高氏は大変厳しい。リクルート事件に触れて言う。

》 江副は日本の財界が生んだ“鬼っ子 なのであり、 彼らが無縁な顔をすることは許されない。
 たとえば、ついこの間まで三井銀行の代表取締役相談役という珍妙なものになっていた小山五郎は、早くからリクルートを「まるで絵に描いたような若さとバイタリティーのある会社」とほめちぎっていたし、財界のティーチャーズ・ペットならぬ“爺ペット であるウシオ電機会長の牛尾治朗が江副を財界活動に引き入れたことはよく知られている。(中略)そんな識見のなさがリクルートをここまで大きくし、江副から真に反省する機会を奪ったのである。今度のリクルート問題は日本財界も同罪だと私は言いたい。

》多分そうではあろう。もっとも私は財界を全く認めていないので、彼等が地獄へ落ちようと心配していないのが佐高氏との違いであろうか。
 嶌信彦『国際情勢を読む技術』(PHP研究所、一三○○円)。情報収集とそれをつなぎあわせる能力によって国際社会のシナリオが見えてくるという啓蒙書。元毎日新聞記者らしいが、妙な自信があふれているところが嫌味だ。きっと、毎日新聞が傾くことも嶌アナリストは誰よりも早く分かっていたのだろうね。

 某月某日 最近やたらと右傾化して誇大妄想癖が進行中の栗本慎一郎『ニッポンの終焉』(現代書林、一三○○円)。とうとう、この日本の危機を救え、と中産階級へのアジテーションを始めてしまった。例によって敵は民主々義的かつ進歩的グループ。私にはくそもみそも一緒にして粋がっている栗本などどうでもいいのだが、興味深いのは、彼が、売り出しを買って出たはずの上野千鶴子批判をやらざるを得なくなったことだ。話題になったアグネス・チャンの子育て論争に触れて、アグネス支持派として林真理子ら保守派をめったぎりにした上野に対して、保守派の面目から上野批判をやらざるを得ないというのも哀れなことだ。
 栗本はそこで「フェミニズムの女帝、社会学者上野千鶴子」は「偽善」者であり、「政治的引き回し主義」に走っていると批判する。馬鹿馬鹿しい。上野が昔から「政治的引き回し」を得意としていたことは、その処女作から分かり切っていたことではないか。セクシー・ギャルの大研究などという本の売り方自体が、どう考えたって、政略的じゃないか。アグネス論争が始まるまでは上野が「初めは処女だった」みたいなことを言っていたら笑われるぜ。もっとも栗本だってパンツで人間論をやってみせたんだから、同じ穴のムジナで、目がくもっていたのもしょうがないか。栗本は、暗黙知理論とかで、決定論を振りかざしてご満悦のようだが、少なくとも歴史に学ぶことと主体的苦闘は螺旋的に発展していくのであり、昔のことを持ち出して人間の運命を決定づけるのはつまらないことである。

 某月某日 笠井潔『外部の思考』(作品社、一八○○円)。推理小説家になってしまった笠井も評論を書くと昔の黒木龍思に戻ってしまうようだ。つまりは、いいだもも風のモダニズムを裏切って、主体性論(黒田寛一)と共同幻想論(吉本隆明)を再構成しようとして破綻してしまった文体に。こういう人がリーダーの政治組織はつらいなあ。
 武田徹『紛いもの考』(CBSソニー出版、一二○○円)。『シミュレーションとシミュラークル』とはボードリヤールの現代社会分析の名著であるが、ここでは現代をシミュラークルの時代(紛いものの時代)と押さえた上で、様々な分野でのシミュレーションを実演して見せている。略歴を見ると、一九五八年生まれ。ICU大学院比較文化研究科後期博士課程満期退学とある。私はこの人のシミュレーションの中にあるニヒリズムを好まないが、方法論はともかくとして、村上春樹が『風の歌を聴け』ではなく『ノルウェイの森』でデビューしていたらどうなっていたかという着眼、十代のヒーローであり麻薬事件を起こした歌手・尾崎豊の孤独を虚像と二重写しにした文章など、才能のきらめきを感じた。

 某月某日 都市のフォークロアの会編『幼女連続殺人事件を読む』(JICC出版局、三九○円)。宮崎勤という「幼女連続殺人犯人」がどのように報道されたかを記録した本。新聞や雑誌に登場してコメントを出す文化人という人達が、宮崎以上にいかにうさんくさい人種であるかを暴露している。僕は宮崎君を犯人と決めつけた上で発言することは控えたい。
 みんな安心したいが故に、すべての事件を宮崎君に押しつけていないことを希望する。宮崎君がアニメファンでビデオマニアであり、幼女に対して心ひかれるということは、決して問題にされるべきことがらではない。そのことと、誘拐殺人事件とは切り離して考えるべきである。小倉千加子という、上野千鶴子に匹敵する政治主義者は、宮崎君が長髪であることをして、「断層に落ち込んだ不器用な男」(朝日新聞八九年九月二日)と決めつけている。フェミニズムを称する左翼ファシストにはやさしさと人を見る目がない。

 某月某日 神一行『こんなに変わった政界の勢力地図の読み方』(KKベストセラーズ、七四○円)。いわゆる永田町の論理で、総理大臣の椅子を次に狙うえるのは第一に安倍晋太郎、そして小沢一郎が有力であることを派閥力学、世代論、閨閥の構造などを通じて分析して見せている。それなりに面白い。それにしても、今月はどういうものだろうか、全然まともな本を読んでいない。新書と与多本ばかりだ。そろそろ立て直したいが、時間がないのでどうしても軽きに走ってしまう。いかん。

 某月某日 尾辻克彦『グルメに飽きたら読む本』(新潮社、一○五○円)。グルメブームに対するちょっぴりワサビの効いた礼賛というところか。例によってトリヴィアルなものへのこだわりが不思議な味を出している。『黎』執筆者では、嵩文彦さんの詩や散文に似た趣きがある。

》 私はグルメが好きである。とくにグルメの丸ぼしが好きだ。ちょっと堅くて、噛むとゴリッとした歯ごたえがあり、独特の苦みがある。それが噛んでほぐれてくると、甘みのようなものが出てくる。甘みといっても砂糖の味ではなくホーレン草を煮出したような、口の中の粘膜に抵抗があってしかもなじむというか、たとえば中華料理のピータン、あんな味にもちょっと似ている。

 こんなとぼけた文章は読んでいて楽しい。
 坂田俊文『「地球汚染」を解読する』(情報センター出版局、一三五○円)。これはまた変わった環境論である。環境問題を国際政治問題として読み取ろうとする一種の内幕物である。

》なぜ、いま環境問題がこれほど大きく取り上げられているのか?
 そこには、やはりそれぞれの国の思惑があるとしか考えられない。
 とくに本書の中で何度も繰り返してきたとおり、火付け役であるアメリカの思惑によるところが大きい。
 アメリカの基幹をなしている農業の問題が、今回の環境問題のベースにある。長期的に見た場合、環境をこれ以上悪くしないように努力しなければ、自国の穀物の収穫量が変わってしまうという、穀物過剰輸出国としての危機感が背景となっているのである。
 また、さらに広い意味での戦略的な背景もあると、私は考えている。それは、環境規制を行うことでの具体的なメリットである。規制をクリアーする新技術のいちはやい開発は、市場の占有を可能とし、莫大な利益を生む。

 こういう考え方は、一見もっともであるが、真の意味での人類的幸福ではなく、国家的利益を優先的に考えようとするところが極めて危ない。単純な平和待望が空論でしかないように、単純な環境浄化論も空想的であることは間違いない。しかし、環境問題は今や企業や国家の利益レベルではなく、人類史的レベルで捉えなければならないところにきているのだ。そしてその主体は労働者といわれてきたところの人類の階級的部分である。

 某月某日 筋金入り右翼コンビの谷沢永一+渡部昇一『現代流行本解体新書』(PHP研究所、一三○○円)を手にする。笑ってしまった。PHPを舞台に松下幸之助を論じる(ヨイショする)という感覚はどういうものか。谷沢というこの右翼・スターリニスト、文学研究者としては立派であるが、段々たがが外れて先祖返りして好き放題しているようで、こんな連中につまらぬビジネス本を「こう読め」と押しつけられるスターリニズムやファシズムに免疫性のない、企業戦士予備群の若者たちが気の毒に思えてしまう。地道な研究者だった昔もあるというのに、時代が右転換したことをいいことに、声ばかり大きくししゃりでるあほうども!伊藤整が生きていれば今、どんなふうに語るだろうか気になる。
 高橋源一郎『ペンギン村に陽は落ちて』(集英社、一一○○円)。ポップ小説の旗手による痛快テレビ・マンガ・パロディー小説。いうまでもなく鳥山明の「ドクター・スランプ アラレちゃん」の漫画(アニメ)の登場人物を中心に、おなじみのドラえもんなども加わってナンセンスな物語が展開されていく。面白いと言いたいところだが、今一つパッとしないのは、やはり表層で遊び過ぎているせいか。

 某月某日 朝日新聞山形支局の『やまがた舞台再訪』(いちい書房、四二○○円)。朝日新聞が山形県版に掲載した人物シリーズ企画をまとめたもの。今は千葉支局に移った石橋英昭君が送ってくれた。彼は同書で「中島みゆき論」を記しており、記事を書く際に少し電話で話をしたのが縁で手紙などをやりとりしている。中島みゆき論の視点には、新鮮なものがあり、改めて楽しく読んだ。石橋君はこのほか伴淳三郎とロックミュージシャンの遠藤ミチロウについても書いている。どちらもそれぞれに味がある。
 『「C」−風変わりな同窓会』(非売品)。六○年代の大学闘争で大きな足跡を残した中央大学の全中闘(全共闘)の活動家らが二○数年ぶりに一堂に会した記録の報告集。元自治会委員長の出所を励ますというのが名目らしいが、実質的にはそれこそ大学側教授や学生課の関係者のメッセージも披露されるなど、その後のセクト的対立を超えて本当に青春を共有した人達が、ひととき酒を飲み語り合おうというクラス会の雰囲気が伝わってくる。参加者には元全学連副委員長、社学同委員長、第二次ブント幹部らそうそうたる顔ぶれもあるが、大半は地道な生活者として会社づとめをしている中年オジンたちのようだ。普通ならバラバラになってしまった人間関係をつなぎとめ、二百人近くが肩を組みあえるというところに、六○年安保全学連が解体し分散していく中で、その後も、独立社学同として一世を風靡し全共闘運動への橋渡しをした中大グループの底力と明るさを感じた。

 某月某日 田中眞紀子『時の過ぎゆくままに』(主婦と生活社、一三○○円)。「目白の女帝」などといわれている角栄氏の娘さんのエッセイ。感性鋭いものあります。しかし、やはりエリートなんだな。外国留学の体験と父親と一緒に国際政治の舞台を見てきたことが、大変視野を広くしているが、結局、真の意味で大衆レベルまで降りてはいない。そういえば、この人も「紀子」という名前なのかと、両者の共通性をなんとなく感じた。

 某月某日 ぼくらはカルチャー探偵団『読書の快楽』(角川文庫、三九○円)。暉峻康隆『日本人の愛と性』(岩波新書、五五○円)。前者は様々なジャンルでのおすすめ本紹介。随分読んでいない本がいっぱいあるので呆れるのみ。後者は近世文学の専門家が書いた恋愛を巡る一種のエピソード集。暉峻先生は、日本は「明治・大正から終戦の昭和二十年までは半封建時代」だと、考えているそうで、これはやっぱり講座派の影響かしら。
 村田友常『読む人間ドック』(光文社、七七○円)。これもそう目新しいことは書いていないのだが、年のせいか、どうしても健康本を見つけると気になってしまうのは困ったことだ。

 某月某日 弓削達『ローマはなぜ滅んだか』(講談社現代新書、五五○円)。世界帝国として繁栄を極めたローマ帝国もゲルマン人たちの興隆によって、ついには滅んでしまった。その生活を丁寧にたどることによって、示そうとしているのは日本の明日である。
 ローマ人たちはローマのために働いているゲルマン人たちを殺戮したり追い出してしまった。「ローマ人に大して苦言を呈することは、ボートピープルを笑顔で受容れよ、とか、外国人労働者を大切にせよ、とか、在日韓国・朝鮮人を差別的に扱うな、というのと同じくらい、今の日本人には非現実的な勧告に響くかもしれない。しかし、文明世界の永続は、ニーズの世界や第三世界との平和的共栄なくしては不可能であることは、現代世界もローマ世界も変わりないと思うのである」という弓削氏の結論はいささか短絡的だが、それなりに正しいことは間違いない。
 続いて矢吹晋『文化大革命』(講談社現代新書、五五○円)。一挙に結論に行こう。

》文革は現実の社会主義に対して、まず修正主義論の角度から疑問を提起し、ついで社会主義の内実を根底から懐疑する精神を植えつけ、中国の近代化を根本的に再考する契機を与えた。「すべては疑いうる」というのが、マルクスの座右の銘であったという。中国の若者たちが社会主義を疑うことを学んだことが文革の最大の教訓であったと私は考えている。/毛沢東は帝国主義を反面教師として革命家になった。中国の若者たちは、いま毛沢東型社会主義を反面教師として二一世紀の中国社会のあり方を模索している。

 私もまた矢吹氏同様、一度も文化大革命支持派であったことはないが、多く学び多く刺激を受けた世代の一人である。中国の結末について、私は天安門事件を含めて依然としてうまく言えないところがある。それは連合赤軍事件についてもそうである。間違っていたことは確かであるし、そう言うことはできる。私的領域での重荷めいたものは数年前に消えたが、大きな部分での問題は残されたままである。革命というヒドラは棺を覆うてなお定まらずというべきか。

 某月某日 井崎脩五郎の『小説・日本競馬界』(双葉社、七一○円)。トリヴィアルなものへのマニアックなこだわりが魅力の井崎の競馬小説。なぞ解きの楽しみはあるが、小説としてはイマイチ。井崎はやはりコラムや
エッセイのほうが面白い。
 岸本重陳・小沢雅子編『いま日本経済が面白い』(有斐閣、九二七円)。絶好調と言われる日本経済の構造を経済ブローカーたちのヨイショ路線とは遠くはなれた低い視線から一つ一つ検証している。ちょっと浮かれ気分の裏側では、怪しげな企業財テクがまかり通り社会と企業と精神の空洞化が進んでいるという事実に私達は戦慄しなければならない。

 某月某日 堀川幸子『宝の島北方領土』(楡書房、九○○円)。語り口はやさしいが、大変な右翼・反ソ思想の本。自己の民族の誤りについしての反省を欠き、一方で責任を他者に押しつけるという典型。

》「ねぇ、あなた、ひどいと思わない?ソ連兵が島(北方領土のこと)に入って来たとき、女の人の赤い腰巻まで持って行ったんですって」
 「ソ連の旗の色は血の色だからね。ナイフとホークで肉を切り割いて、突き刺して食べる民族ですからね。血がしたたるわけですから。・・・」

 こんな会話を平然としているのだから驚く。一体肉食民族が残酷だなんてだれが決めたんだ?
 考えるところあって、いわゆる「北方領土」関係の本や雑誌論文などを二、三十冊ばかり読み直す。どれも自分の感じるところにしっくり来ない。妙な気の昂ぶりがあって、「北方領土」論一○○枚ばかり書く。官許理論とも、いわゆる右翼や左翼とも一致しない。自分の孤立性を感じる半面、初めて未踏の荒野へ歩み出したことを確認する。ラジカルにひューマニスティックに、そしてフットワーク軽く九○年代へ進んでいこう。

 某月某日 長谷川みさを『IAI』(鳥影社、一八○○円)。待望の長谷川さんの第三詩集が完成した。六○を過ぎてなお時代と自己を手放さず、現代詩を書き続ける情熱に感動する。私自身はここ数年、詩らしい詩を書かなくなっている。かろうじて雑文を書き散らしているが、彼女のように息長く気合いをこめて表現活動を続けられるかどうか。長いためいき。

 某月某日 たけもとのぶひろ『滝田修解体』(世界文化社、一三六○円)。心ならずも実体的には無関係な朝霞基地の自衛官刺殺事件の容疑者にされてしまい、長期間の地下潜行生活を送り逮捕されてしまった滝田修の自己批判的同時代論。六○年代末、全共闘運動が後退戦へと雪崩れ込んでいく時、旧来の党派−大衆に系列化される運動構造にノンを言い、「ならず者たち」(Ungewordensein)による新たな階級形成論・パルチザン五人組などを提起した滝田は、当時の気分に、方法に主体に思想に、検証を加え、他人の誤りを正しく指摘する側にもまた誤りがあったこと、大衆という時、その実体に最も迫ろうとしたにもかかわらず、理論主義的なエリート主義的な落差があったことを明らかにする。心優しいテロリストが静かに転向していくことは、珍しいことではない。批判することは簡単だが、滝田は彼なりに「大衆」との緊張関係を持続しようとしていることだけは間違いないのだから。しかし、あの赤軍派の塩見元議長の古い社会主義革命論への回帰とともに、時代は思想はすっかりたそがれてしまった。時代とともに生きている歌手は歌っている。

 疑うブームが過ぎて 楯突くブームが過ぎて
 静かになる日が来たら 予定どおりに雪が降る
 どこから来たかと訊くのは 年老いた者たち
 何もない闇の上を 吹雪は吹くだろう   (中島みゆき「吹雪」)

 新しい年は、この一年余り続けてきた意識的な戦略的対峙路線を抜け出し、あらゆる領域において、溜めていた力を振り絞り総反攻へと進んでいかねばならない。 


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