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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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 何を読んだか 1992-2

 某月某日 佐高信『日本に異議あり』(講談社、1400円)。経済評論家といえば御用評論家が大半の中で佐高さんのようなポジションを守っている人は本当に珍しい。彼の筆は権力に媚びず一貫として足を地に着けたリベラリズムを示している。

》勲章を拒否し通した珍しい財界人の宮崎清次郎は日本工業倶楽部の理事長を戦後まもなくから長くやったが、工業倶楽部の屋上にゴルフ練習場をつくる案が出て来た時に、こういって怒った。
「いいか。このごろの労組のあり方も目に余るが、経営者の心構えはさらになっていない。おまえが労組の人間で工業倶楽部の前を通ったと思え。いい年をした人間が、白昼、棒なんか振り回して遊んでいるのを見たら何と思うか。二度と再びこんな案は俺のところに持ち込んで来るな」  
しかし、いまやその労組の人間が、「白昼、棒なん か振り回して遊んでいる」時代になった。

 これはいうまでもなく、NTT労組(全電通、連合)の山岸批判である。ついでながら最近、バブル崩壊にもかかわらず、みずからの言動に反省の色ない長谷川慶太郎批判も冴えている。全く、大阪人脈かなにか知らないが、今ころになって、長谷川のヒゲのチリを払って喜んでいる太鼓持ちがいると思うと情けない。長谷川の「予言」などほとんど的をはずれている。長谷川は宮沢が民主党支持で「日米同盟が世界を動かしている」のだからアメリカの現政権に気に入られない宮沢ではダメだ、といったそうな。卑屈ではないか。

 某月某日 張承志、小島晋治・田所竹彦『紅衛兵の時代』(岩波新書、550円)。少数民族の出身で「紅衛兵」の名付親である著者の半生記。毛沢東に直接支持された誇りを胸に生きてきた著者の姿勢は美しく造反派の一途さを感じる。

》少年時代に共産主義への憧れを持ったことを、別に恥ずべきだとは思わない。今になった当時の感激を思い出してみても、何か粛然とした気持ちになる。
 大事なのは、いかにして前に進むか、つまり自己のある時期の感激を、どうやって一生の事業に発展させることができるかにある。そして私自身と多くの元紅衛兵についていえば、もっとも重要なことは、自らが中国人民のなかに占める位置を見つけだす点にある。(中略)
 紅衛兵はかつて特権の影をひきずっていたが、底辺の人々と接するうちにそれを綺麗に取り除くことができた。紅衛兵が持っていた造反、反体制の精神は結局、精神の自由の回復を目指す基層人民と結びつくことができた。つまり、20年かけて官僚批判を続けてきた末に中国民衆のもとに戻ったのだ。私自身のケースはその一例にすぎない。

 うーむ。立派というべきか。求道的美学になってしまっているが・・・。

 某月某日 小室直樹『日米の悲劇』(光文社、790円)。おなじみの大先生の大東亜戦争総括と新日米関係論。要するに、パールハーバーによって変わった米国人の世界観とあいも変わらぬ日本人の組織観とを縦横に論じている。内容的には例によってとんでもないホラ話が少なくないが、これは天才・小室氏ゆえの愛嬌として、実際にはためになるところが多い。世界の警察になった米国論は省くとして、傾聴に値するのは日本の組織論の批判。要するに、小室氏は日本社会の病理を次のように指摘する。

》なぜ、おなじく訓令違反でありながら杉原千畝氏はクビになり、井口、奥村両氏は不問に付され出世して勲一等まで授けられたのか。(中略)
 エリートで主流に立つ人には、他の人びととはちがった特別な規範が適用される。
 まさに、この法則から由来したのである。
 第2次世界大戦における日本軍の失敗の本質も、究極的には、すべて、この法則から由来している。   
 では、何故に、日本にかぎって、かかる法則が作動するのであろうか。その理由は、日本においては、機能集団が共同体になっているからである。アメリカのような近代社会においては、機能集団と共同体とは、別個の存在である。

 小室氏はそのような日本社会の性格は今も変わっていないと指摘する。この視点は鋭い。このラディカリズムを貫けば、天皇の最高責任にまで発展するはずだが、小室氏はそこまで考えているのかどうか?

 某月某日 ビートたけしの『目には目を毒には毒を』(小学館、1200円)。こちらもおなじみのたけちゃんの毒舌本。パワーが少し落ちてきた気もするが、面白さは変わらない。

》沢田研二から、野口五郎、郷ひろみだなんだって、全盛期にはみんな一世を風びしてね。(中略)一気にピークに登っていい思いをした連中ってのは、その分の“ツケ”ってやつをどっかで払わないといけないっての。上原謙さんの場合もいまになって、若いときの分のツケを払うことになっちゃたんだよ。そう思うと同じ年代の佐分利信さんや佐野周二さんの晩年のほうがむしろよかったかもしれないよな。上原謙さんほどの絶頂期はなかったけど、その代わり老後も大騒ぎされないで静かに死ぬことができたというね。うまいトシのとり方と、死に方ってのはすごく難しいんだっての。トシとって不幸に見舞われると、それだけショックも大きいからな。  

 この辺は吉本隆明さんの環相論の芸人版である。

 某月某日 佐藤直樹『刑法」(現代書館、979円)。FOR BIGINNERSシリーズの1冊である。佐藤さんとはもう大分前に青弓社で偶然会ったことがある。九州大学の研究室にいるとかで、当時から法律の読み直しをしていると話されていた。僕が論文の中で当時、現代思潮社から出ていた新田直の文章に触れているのをめざとく見つけられ、「新たな青か、なつかしいなあ」などと妙に感心していたのを覚えている。
 ところで、佐藤さんがこの本の中で強調していることは、法律とは共同幻想でしかないということであり、その法律の展開を吉本隆明ならぬ宇野弘蔵の3段階論に基づいて説明していることである。
 刑法学に3段階論を持ち込み、原理的に研究をする原理論、歴史的研究をする段階論、さらに解釈学的研究をする現状分析というのは、僕ら素人目には本人が自負しているほどには新鮮に映らない。要するに、どんなにすぐれた刑法論にしても、結局は解釈学に留まっているからか。「犯罪という概念は普遍的で絶対的なものではなく、時間・空間によってどのようにでも変化するものだということだ。ということは、犯罪は客観的に存在しているものではないということになる。つまりだれかによつて『つくられた』概念ということなのだ」という常識的ではあるが、やはり根底的な指摘に相づちを打った。

 某月某日 津田道夫の『実践的認識論への道』(論創社、2200円)。三浦つとむを俗流にしたらこうなるという典型的な哲学者。教科書的であるが、論理学は形式論理学と弁証法、弁証法は自然、社会および人間思惟の運動の一般法則の学、認識論は人間思考の一般法則に関する学、という原則や武谷三男の3段階論、すなわち現象論的段階、実態論的段階、本質論的段階、庄司和晃の仮説実験授業など、どれもが昔の名前で出ています、というものだが、面白かった。

 某月某日 鷲田小弥太『いま社会主義を考える』(三一新書、750円)。サブタイトルには「資本主義の臨界点としての社会主義」とあるように、要するに「私は、現代社会主義を、資本主義の後にくるが、資本主義と共存するものと考えます」というのが、鷲田の言いたいことのすべてである。僕はこれを聞いて構改派の母斑はなかなかとれない、とあきれてしまった。要するに今までの社会主義は駄目だったが、資本主義のいいところを取り入れて共存しながら、社会主義の可能性だけは留保しようというものである。第2インター、ベルンシュタイン、日本の江田三郎や社会民主主義者など例にことかかないし、彼らが昔から言っていることを現代流に言い直しているだけか。そして「先進国と非先進国とのあいだの不平等拡大の道は、社会主義への新たな実現を促すということでは悲観的ですが、平等化を要求する社会主義の必要性の声は拡大する、と見てまちがいありません。21世紀は、19世紀とは違った意味で、社会主義が『希望』の星となる必然性はあるのです」と書いている。すなわち先進国では資本主義的な価値を認めながらやらざるを得ないが、後進国ではやっぱり資本主義は駄目で社会主義的にやろうというわけ。こういうのは異議ありだな。

 某月某日 長倉洋海『フォト・ジャーナリストの眼』(岩波新書、620円)。北海道出身の写真家の眼が光る。かつて「ゲリラ7つの戦線」という写真集を見たがその時感じた危なっかしさが、ここでは消えている。たぶん、駆け出しの頃の本人の不安定さが写真に投影していたのだろうが、今回はどの写真も一種の芸術写真のような美しさがあふれている。アフガン・ゲリラの英雄マスードしかり、エル・サルバドルの少女達しかり、さらには日本の底辺とでもいうべき山谷の男達しかり。戦争を僕たちはなにか特別の世界の出来事のように思いがちだが、戦争は言うまでもなく世界の日常のひとこまである。そこには緊張の戦闘ばかりではなく、生き食べ恋し夢みる時間がある。長倉の眼はその人間の業と崇高さを鮮やかに映し出している。

 某月某日 千代丸健二『人生トラブル解決法』(三一書房、800円)。ラジカルな市民主義者の「人権110番」記録。この人のこだわりというのはちょっと尋常ではないところがあり、最終的には感心させられる。反権力ということをひとまず除外してトラブル解決の原則について耳を傾けてみよう。
 
》1・まず事実関係を、しっかりと把握するのが基本原則なり
 2・人脈と情報の収集と、生かし方がモノを言う
 3・知識と情報と技術が、すべての基本である
 4・相手を知り、自分を知って交渉すれば、必ず成功する
 5・相手の立場になって考えてみる、自分ならどうするかと置き換えてみる
 6・どうするかの前に、どうなるかとまず考える、物ごとの流れを掴む
 7・どうするかは、その分析の後のことだ

 一種の戦略・戦術論ということになろうが、何にでも適用できそうだ。

 某月某日 謝世輝『戦争はなくならない』(光文社、790円)。全く時間がないことを理由に、まともな本をさっぱり読んでいない。「文部省<非>検定」世界史教科書というのがキャッチフレーズのようだが、「『野蛮なる西欧』を世界史の中心から退場させる」などと叫んでいるのだからかなり危ない。

》「自由と平等」の理念のもと、さまざまな法や制度がつくられ、改革された。こまかな論議は省くが、その大もととなった精神は「民主主義」であり、「多数決の原理」だろう。この「多数決の原理」とは、ヨーロッパ人という人類のなかの「少数者」の存在を前提としていることに注意を払わなければならない。

 反西欧という気持ちは分かるが、これは理念の普遍性が欠けた俗論にすぎぬ。

 某月某日 神津陽の『歴史的現在』(JCA出版、1500円)。サブタイトルに「ターニングポイントを読む」とある。全共闘運動を継承してきた共産同(叛旗派)の解体以降も時代におもねず自由に生きてきた神津さんの情況論というところだ。
 一読の印象は形は消えても全共闘精神は健全なり、ということか。今更、名前を挙げて悪いのだが、「全共闘記」を書いていた兵頭正俊には全共闘の一番悪い部分を全部背負ってこらえられなくなったような歪みが感じられるが、神津さんはいかなる時でも<個>の自立を状況から手放さないで、野武士のようにさわやかに生きているところがいい。

》個々がやりたいようにいきるには関係する他者もそのように考えることが必要で、自由な関係にもルールがあります。実際の全共闘運動はバリケードの陥落とともに敗北しましたが、社会現象としての全共闘は70年以降の文化・風俗のベースとなったと思います。今時の若い者には、自分のやりたいようにいきることは全ての判断のベースです。社会の管理に面従腹背することが習慣化していても、それを肯定している訳ではなく、変えるイメージや考え方がわからない丈だと思います。この意味では、風俗は流布されても全共闘のエッセンスは伝承されていず、課題はそのまま残されているようです。(「記憶とスタイル―『ノルウェイの森』に触れて」)
 
》いかに国境を限ろうとも経済が世界大の規模で進行するスピードは停止できない。新しい歴史の原動力は、大衆が自らの生活と歴史の主人公とならんとする意志に支えられ、政治改革を通しての経済社会の統制や搾取の廃棄に向かっている。昔の私の用語でいえば「社会革命を内包した政治革命」への志向と呼べよう。権力の暴力的奪取を終点とするレーニン型の政治革命は先進国では不要であり、一党独裁へ到る党の指導は世界的に不能である。日常に根ざした社会革命のイメージや欲求の形が政治改革のスタイルを規定する時代が到来しているようだ。
                (「『1989年』の意味」)

 この当たりには、時代と経験に対する神津さんの構えがよく出ている。やるべきこと、欠けていることがよく見えているというべきか。

》自分の意志で参加し、討議し、活動して楽しいことは、必ず広がります。せちがらい世の中で、親が楽しく生きようとする姿勢は、子どもにとって何物にも替えがたい無言の教育だと思います。  (「”楽しいPTA”をめざして」)

 これはあっと驚くPTA会長候補としての公約の一節だが、SECT・NO6―全共闘―叛旗派へと続く組織論の伝統が身近なところでいかされている。

 某月某日 千代丸健二『悪い警察とたたかう本』(筑摩書房、1100円)。僕は性格的にいっても千代丸さんのような粘着質の人は好きじゃないんだが、なぜかこの人の本を読んでしまっている。カバーの赤塚マンガのせいか?例によって内容は実録・無法ポリス対決集であるが、改めて勉強になったのは次の2点。
 警察官の職務質問の条件は「警職法第2条」の事件に関係ありと疑うに足りる相当な理由が合理的に存在する時だけに限られ、しかも仮に質問できるとしてもあくまで任意であり、立ち止まることも答えることも同行の義務がない。なるほど。第2に運転免許証の提示は「道交法67条1項」の「無免許、酒気帯び、過労、大型資格外」以外に義務はないとのこと。かつて救援連絡センターがその種の反権力本を出していたが、今なお具体的に実践しているところが凄い。

 某月某日 思うところあって今日から保守、反動、体制派イデオローグたちの本の学習会スタートする。
 やはり第1号は日米運命共同体主義者で、バブル万歳論の元代々木の株屋・長谷川慶太郎からである。長谷川慶太郎の『1992世界はこう変わる』(徳間書店、1500円)。かつて「卑屈な反動」と呼んだことがあるが、この敬称は依然として変える必要がなさそうだ。要するに、頭の中には「日米関係は世界の軸」というドグマがあって、対米関係を円滑に維持するために、日本は米国のために、ナショナルな政治的な主張をするのをいっさい控えて、経済的に稼がせてもらいましょうという図式だけがある。だから、宮沢政権の誕生は、宮沢が民主党寄りだから、米国が認めないゆえに、政権を担えない(同書6頁から)などと予想してしまうのだ。そして、その予想がはずれてもまったく反省しない。なぜなら、「どんなに悪人と非難されようと、投機に仕手は欠かせません」という居直り。「不祥事の続出で、バブル経済非難の大合唱ですが、自由経済にバブルはつきものです」とバブル(=株屋・長谷川と読め)を礼賛するのも、株屋の本音を吐露しているだけにすぎない。
 何事につけて戦略だの路線だの大時代の構えをして、偉ぶるのは、崩れ左翼の特徴である。そんな人物がマルクスを批判するパターンは決まっている。本質批判を避け現象による追認。「言葉で自分を合理化したという点では、マルクス主義の右に出るものはありません。マルクスもレーニンもたいしたものですよ」。ああそうねえ。「しかしどれほど堅固な言葉の体系でも、事実には勝てません。政治や経済は、結果が悪かったら一切がパーです」!。やっぱり。それが結論か。結果と同様に過程を重んじるのが民主主義の最低綱領だといっても、この投機屋には通じないかもしれないが、一応批判しておこう。
 この反動存在が尊大ぶっていることを先にその出自から述べたが、もうひとつは自分が権力中枢に潜りこんでいるという錯覚がその傾向を助長している。

》私自身は防衛庁の部外者じゃない。内部に参加してきた人間です。ずっと防衛研修所の高級幕僚コースの教官です。現在の師団長クラス以下は全部私の教え子です。

 株屋に教えられた軍隊が投機のように戦争を考えないか心配ではある。この卑屈な日米共同体主義者は江藤淳を「戦争に負けて占領された悔しさが何十年も忘れられない」と批判している。オレは江藤のルサンチマンもダメ、バブルの長谷川もダメと思う。

 某月某日 谷沢永一『日本を叱る』(講談社、1300円)。卑屈な反動の長谷川慶太郎のお仲間ともいうべき床屋政談の反動の登場である。まじめな文学研究者として地道に務めていればいいものを、関西という藤本義一的知識人が許容された風土に、いつのまにか評論家としてのさばってしまったのが、谷沢である。
 経済バブル主義の長谷川に対して、谷沢はその上に社会批評を加えているのが特徴である。予想が当たらないこと、はずれても全く反省しない点でも長谷川と同様である。谷沢は長谷川の受け売りで政治状況を分析し宮沢を教養主義(東大エリート)として毛嫌いし、次のように言う。

》世界の舞台は、1991年のソ連邦の解体をもって一度はっきりと幕を下ろし、新しい幕が上がるのが1992年―日本はそれからやや遅れて、宮沢内閣の崩壊は92年の前半、参議院選挙の前だと思うが、それによって、日本の現実に目覚めていない古い体質の指導者階級は総対陣する。

 この床屋政治談義が見事にはずれたことは事実が証明した。大体、高知県知事選挙の橋本大二郎ブームにショックを受けて「事件」だとして大騒ぎし、その対極に気に入らない宮沢を持ち出して批判しようというのは、どんなものか。もっとも、谷沢は関西人らしいアクの強さと図々しさで、下の根も乾かないうちに「いまの世の中では、あらゆる情勢を読み切ることはほとんど不可能である」などと逃げを打っているのだからずるい。この種の反動存在は、いかにも自分は常識に基づいて正論を吐いているのだ、というふりをしてみせるが、その実体は常識という名の片寄ったイデオロギー以外の何物でもない。
 「ソ連邦を崩壊させたのは日本」(=日本のハイテクがレーガンの軍拡路線を助け「第2の日露戦争」になった)「湾岸戦争は日本にとって得であった」(=日本列島が大石油ショックに見舞われることを考えれば、子供にもわかる道理だ)。
 これらの谷沢の妄言を聞いていると、日本を叱る前にまず自分の病状をみてもらったほうがいいのではないか、と言いたい。

》日本国民が国の方針に従ったためにみんなさんざんな被害にあっているわけで、当時の我々中学生も勤労動員させられた。それらを洗いざらい賠償対象にしていったら、日本国家は解体せざるをえなくなる。
 つまり、従軍慰安婦の問題は、当時彼女が外国人であったという「ウソ」の前提の上に論理が組み立てられている。

 戦争が個人の論理を超越していることはいうまでもない。しかし、軍人に恩給を支払いながら強制連行した無垢のアジアの少女たちを切り捨てるような国は一度解体したほうがいいのだ。感情論理ではなく、民衆の体験の論理としてそう言うのだ。谷沢が「ハガチー事件」に郷愁を覚えるような左翼くずれであるかどうかはどうでもいいが、この国の歴史体験を清算しようとする姿勢だけは看過でかいない。
 この国は戦争体験を内実化し、一方でよみがえった擬制の戦後を解体することが、どうしょうもなく不徹底であったように思えてならない。そうでなければ、谷沢のような常識人を気取った反動が、登場してくることはなかったのだ。しかし、まだ闘いに遅いことはない!

 某月某日 西部邁の『正気の保ち方』(光文社、770円)。ひたすら金儲けを扇動する株屋・長谷川慶太郎、アクの強さで悪賢い床屋政談を繰り広げる谷沢永一。これらにつきあっていると、つくづくうら悲しくなってくる。なにかが狂っている。そのことに全く自覚的でなく自分達は正論を吐いている、という感性の鈍さ。こうした男たちの振る舞いを私たちはどうして黙殺している必要があるか。まだ先を急ぐまい。ともかく、こうした連中とはひと味違う保守派の論客に目配りしておこう。
 西部には全体重をかけた60年安保闘争の磁場から抜け出すのに20年近くかかっているだけに、崩れスターリニスト特有の尊大さを売り物にしている長谷川・谷沢コンビの脳天気ぶりはない。むしろ、<常識>というものへの信頼と懐疑が暗く漂っている。                       
》知識人を民衆にし、民衆を知識人にするというこの相補的な過程を一言でまとめれば、社会の「擬似化」ということになります。つまり、より真なるもの、より善なるもの、より美しいものへの志向が断ち切られて、あらゆる言動を凡庸なる平均へとまとめ上げていく、それが擬似化です。
 戦後日本のやりきれなさは、こういう擬似化人間の集まりが、他国人の追随を許さない形で、貨幣や技術の方面で抜きん出た業績を示し続けていることです。自分らが擬似化人間であることに疑いを抱かないような集団、これは強力ですよ。しかし最後には、日本人は「ベニスの商人」の顛末を辿るんじゃないかな。シヤイロックが金を返さなければ約束どおりおまえの肉を切るといったとき裁判官が出てきて、肉をとっても構わないが、そのかわり血は一滴も流すなという判決を下し、シャイロックはお手上げになってしまう。日本人が擬似化人間あるいは平均的人間として振る舞続けていると、世界は最後にそういう審判を下すのではないか。
                    
 ここには長谷川のような経済大国賛美は全くない。適当な知識を与えられる一方で、集団的に働き続ける日本人の姿。この西部のイメージは僕にも、よくわかる。勿論、わかるとはいっても反面教師としてであるが。僕はこうした西部の嫌う大衆社会状況こそ良くも悪くも戦後の一つの到着点であり知識人と大衆という二分法は完全に無効となった、別のレベルで言い直せば前衛党に領導された解放像の時代は完全に終わったのだ。西部の怒りは良く分かる。しかし、彼の前衛主義に世代的な違和を感じ、そこで彼と別れるのである。
 だが、彼の言葉をもう少し聞こう。
                  
》偏差値的な思考の中からハイテクが出てきて、そのハイテクで日本経済が世界の中を闊歩しているものだから、偏差値もまんざらじゃないということになってしまっている。それどころか、ハイテク競争の勝利に基づいてシュペングラーの「西欧の没落」のことが取り沙汰されている有様です。西欧は落日して日本は旭日するというわけだ。(中略)笑止千万です。

 西部の暗い予感に反して「旭日論」を展開している者がいる。渡部昇一。次に彼の言い分を聞こう。

 某月某日 渡部昇一『日本の繁栄は、揺がない』(PHP研究所,1300円)。西部がシュペングラーの西欧の没落から「文明が没落する徴候はテクノロジズムとオカルティズムの流行だといっているいまの日本の状況そのものじありませんか。自動車と背後霊のことしか話題にならないのですから。日本は」と日本への現状批判までよみこんでいるのに対して渡部はシュペングラーが見た没落は欧米に見事に的中し、日本だけはそれを超えている、とまさしく「ジャパン・アズ・ナンバー1」を宣言する。

》シュペングラーの予言を裏づけるかのごとく、第一次大戦の西部戦線は、まさに死灰の世界であった。そしてファウスト的無限空間征服欲の権化、ヒトラーの出現によって、再び戦禍を経験したヨーロッパの人々の前には、廃墟と化した多くの都市がその姿を晒していた。西欧はその後、かつてのような世界を牽引する力も意欲も失せて今日に至っている。元来の空間征服意欲、ファウスト的精神は西欧の出店であるソ連とアメリカに引き継がれ続けた。  
 とくに、アメリカはそのとき無傷であった。西欧のものであったファウスト的無限追求の意欲はアメリカに移り、あらゆる分野での開発が非常な勢いでなされていった。そしてついに、ベトナムまで行ってしまうのである。ソ連でも空間征服意欲は持続され、アフガニスタンに至った。ベトナムのジャングルをナパーム弾で焼き払ったあとは、まぎれもなく死灰の世界であつた。ベトナムでの評判の悪さを跳ね返すべく打ち上げたロケットが着陸した月もまた、エントロピーの無限大の世界、つまり死灰の世界であった。アフガニスタンの荒地でロシア人も同じことを経験した。
                  
 引用が長くなってしまったが、要するに渡部が主張していることはこれに尽きている。それでは、西欧の後を追いかけてきた日本はなぜ没落しないのか? 渡部は三つの点を指摘する。
一つは、日本には自然はあるがままに受け入れるのがいいのだという「生成り文化」とでもいうべき発想がある。これがコンピュータと自然保護を共存させているという。第二は「働く神々」のイメージ。天皇から庶民まで労働は神聖であり、労働はよいことであると考えている。第三は「心は玉」というイメージ。心が玉であるならば、それを磨くのは仏教でも儒教でもキリスト教でも何でもいいということになる。
 この3つを持ってきて、単純な無限成長のイメージしかなかった西欧は没落したが、日本はいつでも本掛返りできるし、危機にも柔軟に対応できるので、没落することはない。「日はまだまだ永い」と手放しで絶賛するのである。なんというべきか。
                    
》日本と付き合う国は、どこも繁栄している。生活水準は上がる。かつて見られた反日運動も、したがっていまは影をひそめてしまった。この日本式が一番よく機能しているのだとしたら、アメリカの方が日本に合わせることを、そろそろ本気で考えてもいいのではないか、と私は思う。
                    
 渡部の主張の中にあるのは、要するに「終わりよければすべてよし」という驚くほどの楽観論である。誰も渡部の言う通りだとは思わない。それを知っての扇動はまさにデマゴギーだ。
 渡部昇一は日本のすべてを賛美し、アメリカに対してすら日本のシステムを模倣せよ、と叫ぶのである。日米構造協議すら「アメリカの日本に対するバッシングは依然として続くであろう。無限成長のイメージを認めたくないがために、八つ当り的に日本を叩きまくっているのだという印象さえ受ける」と、うそぶく。
 こういう人たちと比べると俗流の極みともいうべき竹村健一すら幾分かまともに見えてくる。

 某月某日 竹村健一『これでわかった日本の問題点』(PHP研究所、1200円)。竹村が自民党の腰巾着的役割を果たしてきたことは事実にしても、常識的に言えば、かなりの長期にわたって言論人として延命して来た背景には彼なりの努力があったことを認めざるを得まいと思う。竹村の努力とは単に谷沢のように保守反動をアジるのではなく、それなりに時代の流れのようなものを嗅ぎ分け、それを自分なりに取り入れてきたことであろう。
 竹村はこの参考書のような本の中で次のように言っている。      

》1・日本市場の問題は外国企業が入りにくく、日本企業が優遇されていること。だが、アメリカ人の対日感情はマスコミが報道するほど悪くはない。アメリカを孤立に追いこまない積極的開放努力が必要だ。
 2・日本経済は久々の不況期を迎えいるが、独自のニューハード技術を持ち、まだ安泰だ。むしろ国民生活の豊かさを求めるべきだ。     
 3・よいものを安く大量に売る日本のやり方は欧米の市場原理に合わず、従業員にも負担が大きい。短すぎる開発サイクルも改善が必要。一方企業の地球化が進む中でそれぞれの地域性も生かすべきである。
                  
 いわれていることは極めて常識的なことである。だが常識的でありながら、未だ実現していない半歩先のレベルを主張することで竹村は一種の大衆性と安心感を獲得しているように見える。
                    
》日本でもっとも審議に手間取った自衛隊機派遣について言えば、目的を難民救助に限る以上何ら問題はないはずで、海外派遣という点でも、日本はアメリカ軍との合同演習などで以前から海外に出ている。あえて言えば、派遣・派兵の違反を言うより前にまず自衛隊自体が憲法違反なのである。それが現在のような形で存続してきたのは、必要に迫られて法の柔軟な解釈、運用を図ったからだ。法が実情に合わないのなら改正を行うべきだし、それができないのならもっとも正しい選択肢を選ぶ前提で柔軟運用を行うべきである。
                    
 竹村は日本の自衛隊が憲法違反の存在であることを素直に認めている。憲法に違反している自衛隊を海外に出す必要があるのなら、憲法を変えるか、それが不可能なら国際貢献という大義名分に沿った理屈付けをして国民を納得させよ、と言っている。これは大変正直な保守派の主張というべきで、解釈改憲で状況をごまかしてきた自民党政府より、はるかにまともである。問題は、竹村が自分のポジションを計算しつくしていることのように見える。要するに、左手で自民党政府と握手しつつ、右手で指を鳴らしているという構図である。そこが竹村の延命の拠点であり弱点と言える。

 某月某日 村松剛『保護領国家日本の運命』(PHP研究所、1400円)。戦後文学史を少しまじめに読んでいたのは、もう相当昔のことになるが、マルクス主義系統とは一線を画し、一種のニューウェーブとして登場した若い評論家たちが、気づいてみるといつのまにか右翼の代表的論客になっているということがある。この、思考転換がどこからやってきたのか、あるいは彼らが全く思想的に変わっていないのかは、よくわからないところがある。言えることは、彼らの思想というものが疑似進歩主義者に対抗的に形成され、結局は自立した新たな場所と方向性を獲得できなかった結果としてそのようなポジションを占めてしまったのだ、ということである。
  村松剛という人も、メタフィジック批評などという一種の反自然主義・反マルクス主義的な文芸論を昭和30年代に提唱したグループの一人であるが「われらにとって美は存在するか」という魅力的なタイトルの本を残して、たちまち自死した服部達ほどのインパクトがないまま、老成して、いつのまにか国の行く末を憂うる国士になっていた。  
 村松は、日本を国家意識なき経済大国として、憂え憤る。                    
》片務的条約を結んで他国の一方的な庇護下に生きるということは、自分を相手の保護領としてしまうのにひとしい。たとえばクウエートは1899年にイギリスと保護領条約を結び、条約は1961年までつづいた(イギリスの当初の目的は、ドイツがバグダッド鉄道を通じてペルシャ湾まで進出するのをふせぐことにあった)。クウエートには、イギリスを守る義務はむろんない。それとよく似た立場に、敗戦後の日本は身をおいて来たのである。                    
 こういう物の言い方を聞いていると、いささかうっとうしくなる。卑屈な経済主義者・長谷川慶太郎のような男の話を聞いていると、なぜか江藤淳のほうが筋が通っているように思えるが、村松のような劣等感を吐露されると、まだ長谷川のほうがさっぱりしていて気持ちがいい。彼らの世界に入ると結局、経済主義と政治主義が綱引きしていることに気づく。要するに、彼らは現実を反映したイデオローグなのだ。
                    
》日本は韓国を含む大陸とは文化的伝統を異にしているし、欧米とのちがいについてはいうまでもない。体質的に孤立しやすく、それだけに機敏な政治的対応が、孤立を防ぐためには要求される。
 地域紛争にそなえてアメリカと同盟条約を新しく結ぼうとすれば、こんどは身勝手な片務的条約は許されないだろう。突然に起こった世界的規模の変動に対応する「新しい世界平和の秩序」の構築は、日本が相応の責任を分担することを、つまりは保護領国家の状態からの脱却を要求している。
 サミットに加わっている経済大国が制度上も気分的にも保護領のままでいたことが、すでに世界史上の珍事だった。保護領は「品格ある国家」には、到底なり得ないのである。
                    
 村松は、国家の武装強化を訴えているが、背景にあるのは要するに、国家的精神・日本的文化の高揚のように思われる。この辺が三島由紀夫のような文化防衛論者に一脈通じるのかもしれないが、いささか通俗的だ。

 某月某日 ある日の妄想。
客 最近はなんだかまともな本を読みもしないで、堕落した毎日を続けているそうじゃないか。
主 ちぇっつ、いい加減なことを言いやがって。こちとら毎日仕事に追われ、必死なんだ。見かけだけの批判はやめてくれや。もちろん俺は仕事がつらくなったらやめりゃいいし、現在がその程度の自由があることは知っているさ。俺が泣き言のように忙しいと繰り返しているのは、自分にたいする激励でもあるんだ。黙っていると流されちゃうからな。
客 なんだかんだ言ってもつらいことは変わらないんじゃないの?
主 まあいいや、ろくなことをしてねえんだからな、今は。何を言っても弁解にならあ。まだギブアップはしねえ、とだけ言わせてもらおう。
客 そうそう。反省する時はすっきり、反省してね。だけど、佐川疑惑は金丸の上申書1枚で終わってしまいそうだし、政治情勢は自民党とその補完勢力主導は変わらないし、少しは良い兆候はないのかねえ。
主 ねえよ。だいたい自分で何もしないで、良いことないのか、ってのはおかしいぜ。昔言ったでしょ、そういうのは代行主義の変種だぜ。待機と期待で、世の中変われば苦労はしないって。元過激派の看板が泣くぜ。
客 面目ない。しかし、自分のプロスターリニスト的体質には、ビックリすることがある。「社共の既成左翼の腐敗を乗り越え」なんて言っていたのに、今じゃ選挙に行けばしっかりと社会党と横路孝弘に1票いれちゃうし。棄権すればいいのに、自民党や共産党よりは、社会党のほうがまし、って投票しちゃうんだな。それでいて、社会党になんか、なんの期待もしていないんだぜ。もしかしたら、社会党ってのは僕たちのようなニヒリズムというのかあきらめというのか、そういう様々な無意識がより集まって現在も延命しているような気がするんだ。それが日本の2番目に大きな政党だというところに、なんというか怖さを感じる。
主 自民党だって同じさ、君の言うような意味での、本当の自民党の政策支持者なんて、ごくひとにぎりのような気がする。社会党よりは自民党のほうが面倒見がいい、なんてところで1票入れているのが大衆の現実じゃないかな。逆に言えば、この国は政治や政党を大した意味を持たない持たせないところに追い込んだのかもしれない。君の言う良き兆候なんて、意外にそんなところにあるのかもしれないな。
客 自民党が大衆の無意識の領域で、社会党より「マシ」という支持を得る根拠はなんだろう。
主 具体的な利権の構造のようなものを除くとすれば、たぶんその多様な現実的思想の優位性だと思う。
客 どういうこと?
主 良くも悪くも保守反動思想家というものは現実をよく見ている。彼らは現実の政治や経済、社会に働きかけねば商売があがったりになるだけに教条的な左翼にはない多様なアプローチをしていると思う。俺は現在的にはにぎやかに論壇を駆け回っている保守反動思想家を反面教師として学びたいと思っている。
客 なるほど。あんたが右翼の本ばかり読んでいるのはそういうわけか。
主 俺にはマルクス主義の教条がない分だけ、彼らの言い分を素直に聴けるように思う。「権力を無化し大衆が自立する」ということだけが評価軸だ。勿論、権力には政治的なものも経済的なものも含まれる。反面教師は導きの糸だ。

 某月某日 阿川弘之の『国を思えば腹が立つ』(光文社、930円)。村松剛の反動ぶりを先にみたが、第3の新人などといわれたグループの現在の大家ぶりをみていると、この国の成熟というもののいびつさがよくわかる気がする。遠藤周作や吉行淳之助らについては別の機会に譲るとして、彼らの周辺で国士ぶりをいかんなく発揮している男に阿川弘之という作家がいる。 
 『国を思うて何が悪い』という第1弾が手に入らず、たまたま読んだのが、この『国を思えば腹が立つ』だ。阿川が言っていることは要するに頑固親父の床屋政談以外の何物でもない、というのが僕の読後感である。すなわち、「アメリカに日本は本当にお世話になった。だから感謝しなくてはならん。それに天皇さまは立派な人柄で、日本の本家のようなものであるから尊敬しなくてはならない」てなことが、この人の言いたいことの全てである。どこの村にもこういう、わかったようで全く意味不明のことを言う人がいますよね。そういう典型がこの親父さんだな。戦争というものへの根本的な反省がないから親米愛国がこれほど単純に表現できるんでしょう。                    
》世界の歴史を見れば、一つのいくさが終わって、戦勝国が戦敗国に占領軍を送り込んだという例は数限りなくありますけれど、アメリカの日本占領軍のような例はちょっと無かった。おそらく、史上最も寛大な占領軍であり、占領政策であったと思います。むろん、東京裁判というものには問題がる。またGHQのスタッフにしても、ものの考え方の単純すぎる人やお粗末な人がいて、教育制度とか国語問題への介入、憲法問題もそうですが、いろんな面でいろんなひずみを残しはしましたけれど、全体として、全体として総合点をつけるとすれば、これはやはり非常に点の高い、寛大な占領政策であって、こんにちの日本の繁栄の基礎はこれによってもたらされたといっても過言でないと思います。

 これはすごいね。アメリカは解放軍だと言ったビックリの全面賛美だもんね。江藤淳という人にかかると、占領軍支配下の戦後は自由とは無縁の拘束・禁忌の時代と、まさしく暗黒の世界として描かれるのだが、阿川のこの賛美は全く正反対の位置にいるといえる。江藤淳のあの怨念を僕らはおぞましく感じる。しかし、この阿川の楽観にもやりきれなさを感じる。要するに、なにかがこの人たちには欠けているのだ。江藤は結局、支配的復古的思想言語を自由に発言できなかったことに、執着しているのに対して阿川はアメリカに留学したことを含めて直接間接の恩義に感激しているだけなのだ。この時、僕ら一般の民衆はどこにいるのだ?      
 戦後が今一度問われている。支配的言語空間のシフトとは別に、僕らは戦前の閉塞感からあきらかにひととき解放を感じていたのではないか。しかし、その解放が結局新たな抑圧でしかなかったところにこそ原点があるなずだ。

 某月某日 香山健一『歴史が転換する時』(PHP研究所、1500円)。阿川のような戦中派の反動をみていると、彼らが現在、大衆的に全く支持されていなくても威張ってみせてくなる気持ちがわからないわけではない。要するに戦中派反動など、戦後社会でまともにあつかわれたことなど一度もないからだ。その恨みがソ連崩壊の今、どっと吹き出す。進歩的文化人ども、おまえたちは間違っいたのだ、ざまあ、見ろ、というように。
 文学的には大江健三郎への批判が爆発する。「僕、アルジェで生まれたんです」などと大江は話したと言い、「彼がサルトルの弟子かどうか知らないけど、彼流の言説で若い人を扇動した責任をどうとるのか」などと息巻いている。
 阿川が「大江を思えば腹が立つ」という気持ちがわからないわけではないが、ここは大江の肩を持ちたい。植民地独立運動に内面・外面を含めてアンガージュしようとするフランス知識人に自分なりに拮抗しようとする大江がとにもかくにも時代を背負って一つの表現をしたことだけは間違いない。
 俺は時代ベッタリというのは好きではないが、時代を真正面から見ていない反動など大嫌いなのだ。評価は分かれ異論があるかもしれないが、全共闘(世代)は時代の勝者ではなかったが、時代の感性を断固として体現し変革しようとしていた。それは阿川らにどう責任を取るのか、などとの半畳を入れさせるものではないし、まさしく「若疑シク覚候ハバ我等ノ所業終候処ヲ爾等眼ヲ開テ看ヨ」のスローガンではないが、依然として自らの主体性において模索せざるを得ない課題であると思っている。
 妙なところで前置きが長くなってしまった。香山健一さん、ご免なさい。あなたの本が退屈だから、わきみちにそれていたわけじゃないんですよ。などというと、いかにもウソくさいか。
 それにしても、香山さんという人は屈折していないなあ。記憶が正しければこの人は全学連で、いつしか未来学とかなんとか、バラ色のことを言い出した経歴の持ち主。確か中曽根内閣では臨時教育審議会委員を務め、現在も日中友好21世紀委員会、松下政経塾など「体制」側で、一種の自由主義的政策論を展開しているようだ。
 香山さんは結構いろんなところに顔をだしていながら今一つ、世論をリードするような派手さがない。今回、その理由が分かったきがする。つまり、この人は大衆を相手にしゃべっているのではなく、欧米の指導者を相手に日本はいかに行くべきかと大演説をぶっているのだ。
          
》戦後日本は、米国からの再三の軍備増強や海外派兵の要請を明確に断り、日米安全保障条約のもと専守防衛に徹し、防衛費を国民総生産比1%以下に厳しく抑制し、非核原則、武器輸出禁止などを国是として堅持してきた。この戦後の非軍事経済大国としての実験は成功を収め、米ソ冷戦の終えんにも大きく貢献したと考えられるので、日本は今後とも引き続きこの基本路線を維持し続けるであろう。           
 過去500年間に生じた「覇権国家」の交代という世界史のドラマは終わったのであり、日本はこのすでに幕の下りた覇権交代の古いドラマに参加するつもりは全くない。 

 香山の限定平和主義、日米協調路線、構造改革の推進ーのどれを取っても目新しいところはない。典型的な体制イデオローグは魅力不足だ。
    
 某月某日 橋爪大三郎・副島隆彦『小室直樹の学問と思想』(弓立社、1800円)。ソ連崩壊を見事に予言してみせた小室直樹の学問的背景に「弟子」2人が迫ってみせた。最近、僕は保守系論客の本を丁寧に読み始めているが、良くも悪くも最も刺激を受けたのが、小室さんであったことは間違いない。僕自身、小室さんの言っていることがずいぶん「トンでいる」ところが多いので当初は必ずしもまともな論評対象とは思わなかった。しかし、ソ連論や中国論に関する本を何冊か読み続けていくうちに、優れた洞察が散りばめられていることに感心した。そして、結論としてのソ連崩壊の必然性を、従来の右翼の「ソ連憎し」「社会主義憎し」とは全く無縁のところから、ズバリと指摘してみせた。なるほどなあ、と思っているうちについにソ連が予言通りに崩壊し予言通りに分割・民営化されたのに2度驚いた。敵ながら小室氏は凄い、と正直に脱帽したのであった。     
 小室「ソ連論」から感じたのはマックス・ウェーバーであった。要するに、ソ連には生産諸力は十分にある、なのにその社会がなぜうまく機能しないか、といえば、近代の禁欲的な、プロテスタントのエトスの欠落、による、と指摘していたと思う。もうひとつは近代経済学。僕はそちらの方面は詳しくないので、どういう人の研究を基礎にしているのかよくわからなかったが、それぞれの工場や生産拠点には十分な物資がありながら、最終的には物不足によって生産がたちいかなくなるのは、産業連関に対する理解がないから、というもの。最後にマルクス主義の問題。その理想とは別の宗教性が社会の活力を奪っていることへの冷静な指摘。ソ連論以外にもアラブとキリスト世界との違いの洞察など、宗教研究家としても、小室さんは極めてユニークであると思った。  
 今回、橋爪さんらの小室学解説を読みながら、改めてその博識と学問的レベルの高さを教えられた、両氏が力説しているのは結局、小室氏が米国留学を通じて、サミュエルソンの近代経済学とパーソンズの社会学を学び日本にあっては森島通夫の経済学、丸山真男の政治学、川島武宜の法社会学、大塚久雄ウェーバー学、中根千枝の文化人類学などを学んで、自分のものとしたということである。名前を聞いているだけで目がくらみそうな大家から直々に教えを受けたのが天才・小室であるから、凄いのは当たり前ということになる。いやはや本当に凄い。驚いてばかりいても性がないので、パーソンズの「構造ー機能分析」の小室バージョンへ一気にいきます。                                            
》1・社会は変数の塊          
 2・変数の間には制約がある      
 3・関数f1....fnを、構造とよぶ。構造が均衡x1,x2,....xnを定める      
 4・それを、機能評価する       
 5・機能が達成されなければ、構造が変動する                

》橋爪 構造ー機能分析を応用するために、構造を特定化した。それはソ連の社会構造だったわけです。それは社会主義体制であり、その内実はこのようであると、小室さんは計画経済の表と裏にわたって、詳細に分析した。それから機能も、特定しなければいけませんが、これは特定の仕方がなかなか難しいのです。簡単に言うとこれは、ソビエトが建て前として掲げているソビエト社会の理想ということでもいい。それを上部構造と考えてもいいし、共産主義はすばらしいという信念だと考えてもいいし、あるいは共産主義にコミットする人々を支えるエートスだと考えてもいいのです。それが構造を支えている変数でしょう。そういうものがやがて崩壊する、あるいはその構造と機能が矛盾するに違いない。そういう根拠に基づいて、ソビエト社会の来たるべき崩壊を予測したのです。         

 ーーなるほど。なるほど、と感心した理由は、小室理論の性格がよくわかったからだ。
 すなわち、限界も見えた気がする。僕はマルクス主義者でもなんでもないが、マルクスは社会の変動の最大関数を階級矛盾に置いたというふうに、この「構造ー機能分析」の表現を借用すれば言えるのではないかと思う。 これに対して小室バージョンはそうした最大決定因子をどのように設定するかについて極めてプラグマチックであるように思われる。つまり、中国やソ連の民族構成や家族制度・風習、イデオロギーなどなどさまざまな変数を探し出してきて、推測を重ねていくことによって社会の問題点を指摘する、という複合制約説的発想。
 橋爪氏もまさしく、指摘するように「ソビエトの場合にうまくいったからといって、次にうまくいくという保証はありません」というのは確かだし、かなり恣意的な領域の多い方法論だと思われるのだ。もうひとつ、この理論は構造主義もそうであったが、現状分析には有効であっても、それを主体的に変革していく有効性は極めてもちにくくなっている。むしろ具体的な変数の行方に極めて冷淡である、と言える。要するに優れた体制的学者の領域を最終的には突破できていないのだ。
 だから、僕は小室氏の日本分析をほとんど信じていないし、ソ連崩壊に関しても大局的な見通しは小室氏の言う通りであっても、クーデタをめぐるスターリニストの反革命とゴルバチョフの中間主義、そしてエリツィンに指導的役割を強制した民衆の英雄的決起のダイナミズムについては評価軸から欠落しているのだ。日本論で言えば「失敗の本質」「ニューマの支配」「日本教の論理」などのキー・タームにしても、民衆の自立さらには共同幻想の無化というもっともラディカルな闘いとは無縁の体制救済の場所から発想されているのだ。僕はそこのところで、小室氏から別れるのだ。ソ連崩壊の後、どこに行くか。僕らは社会機能ではなく、大衆の自立のみを断固として支持している。

 某月某日 小室直樹さん『日本経済破局の論理』(光文社、790円)。サブタイトルにいわく「サムエルソン『経済学』の読み方」。橋爪さんらの本で、小室先生がケインズーサミュエルソンの系譜にある優れた経済学者であることが紹介されていたが、ついに自ら筆を取り「本物の、掛け値なしの、経済学を教授する」とケインズ経済学により日本経済の現状分析に乗りだしたというわけである。もっとも、日本経済が破局する、といっているのではなく、もっぱら経済学講談で終わっているのがいかにも小室さんらしい。
小室先生の言いたいことは次に尽きる。                  

》いまや、複合不況論は花盛り。学界や言論界に対する影響力も大きい。経済を語るときに、複合不況論を避けては通れないほど。それはいいが、聞き捨てならぬ言葉も聞こえてくる。この不況は、「ケインズ理論では説明のできない不況」であるとか。はては、「有効需要の不足だけによっては説明できない不況」であるとか。(中略)
 しかし、不況は、「有効需要の不足だけによっては説明できない」、これはない。不況は、有効需要の不足だけによって説明できるのである。

 そこで小室先生はGNPは消費プラス投資に等しい。有効需要(国民総需要)は、消費と投資からなる。国民経済は、有効需要(国民総需要)に等しいだけの財を生産して供給すると考える。これが国民粗総生産、すなわちGNPである。このように、GNPは国民総供給でもある。不況を脱するには有効需要を増加させる以外になく、そのためには消費、投資のいずれか、あるいは、その両方を増やす。これに尽きるという。    
  経済政策が大事なわけね。やっぱり。

 某月某日 フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』(三笠書房、2000円)。訳者は渡部昇一。要するに歴史は民主主義を最後に、終わりを告げちゃった。そのことをわれわれはシニカルに確認しょうということを大げさに述べているだけである。
 そうかい。困ったね。とオレは笑って答えるだけだ。制度としての資本主義が不快であろうとなかろうと、結局は終着駅なのだ。しかし、僕らは全くそうは思ってはいない。社会主義スターリニズムに未来があるなどとは口が裂けてもいうまい。おれたちは少なくとも新しい歴史がこれから始まることに、いささかの惑いも持っていない。
     
 某月某日 太田竜『ユダヤ世界帝国の日本侵攻作戦』(日本文芸社、950円)。太田竜は田中角栄のロッキード事件を弁護しつつ、ユダヤとの闘いの必要性を支離滅裂にアジテートしてみせる。本当に革マルにしても、その初期の旗振り男の太田竜にしても、どうしてこんなに謀略論がすきなんだろう。権力を肥大化させ、さんびする前になぜ、大衆の生きる根本に対する信頼に目が向かないのだろう。オレはこのような連中のホラ話に付き合う気はないが、まず粉砕してみたいという気持ちを捨てられない。 

 某月某日 大前研一『平成維新』(講談社、1600円)。平成維新などというよくわからない言葉で政治改革のリーダーずらをしている男は何を語っているのか。「労働者ではなく消費者が政治を変える」

》労働者としての立場ではなく、消費者としての立場を徹底的に追求する、つまり人々の「給与をもらう」という行為ではなく、「カネを遣う」という局面を共通項とするほうが、より多くの数が集められる。この区分の代表が力を持ってくれば、いわゆる業界別タテ割り行政に対するチェック機構がより健全に働いてくるのではないだろうか。(中略)労働組合は、供給者側の論理に立った分裂症にすぎない。だから意味を持ち得なくなってしまっているのである。現在、意味があるのは供給者の中の“資本対労働”という対立の構図ではなく、個々人の中で90対10の消費者と労働者という分裂を起こすことである。
    
 大前は、要するに、労働者存在が十分に像を結ばなくなった現在に立脚し消費者(生活者)主権を奪回しようとする。
 先入観を捨てて見れば極めて魅力的な主張があふれていることに驚く。しかし、結局は構造改善を自民党の周辺からやろうとしているだけの俗論を脱していない。


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