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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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 パソコンを読む 10・11・12

【パソコンを読む】10 《電脳社会の表層と深層》 (2000.3)
  
§1《チョベリバだっちゅーの》
 世の中の流れというものに、しっくりと馴染めないときがある。2000年3月に売り出されたソニーのプレイステーション2を巡る狂騒曲もそうだった。確かにプレステ2はゲーム機としてはいいものだろう。だからといって、新聞やらテレビやら雑誌やらが「プレステ2はインターネットもできます」「DVDも見られます」などと、その多用途性をことさらに語るとき、「そりゃあ、結局パソコンがやってることと同じだろうが」との半畳を入れたくなるというものだ。プレステ2をパソコンと考えれば極めて安価な端末が登場したというに留まるし、パソコンから見ればお仕着せ部分の多い不自由なハードという以外にないだろう。パソコンがゲーム機に特化できないように、ゲーム機がパソコンと同じような多様性を持つことは難しいと思っている。もちろん、それはプレステ2で遊ぶことを排除するものではなく、その限定性を理解したほうがいいと指摘したいだけだ。もっともマイクロソフトも当てがあるのかないのか、来年秋にはゲーム機を出すとぶちあげている。いつものことだが。
 世の中にはさまざまな流行というものがある。そうした流行現象を言葉の面から収集した小林信彦「現代<死語>ノート2」(岩波新書 本体価格700円)を読みながら僕は、4半世紀の間のこの国は、実は言葉を消尽してきたが、現実を変革するいかなる言葉も生み出していないのだ、という奇妙な感慨に囚われたのであった。たとえば、1989年から1990年を取ってみる。この時期、世界では社会主義体制が揺すぶられ崩壊していった。日本では昭和天皇が死去し、バブルは崩壊し始めていた。そうした、戦後体制が内外で深刻な転換の坩堝に追い込まれているにもかかわらず、流行語は「Xデイ」「おやじギャル」「お局さま」「HANAKOさん」「デューダする」やら「ファジー」「あげまん」「ランバダ」「ティラミス」などが目立つという具合である。つまり、表層を上滑りする言葉だけが流通し、「Xデイ」の持つ地殻変動の重みを十分に認識する言葉が感性のレベルで探究されたようには見えない。流行語とはそんなものさ、と言う向きもあるかもしれない。だが、そんな言葉とともに思い出される時代というものは、真の意味で大衆の存在感とは乖離している。なによりも昨1999年は「ブッチホン」やら「サッチー騒動」「ヤマンバ・ギャル」だの「カリスマ美容師」がもてはやされたとなると、自衛隊の海外派兵への道を開き、国家による盗聴の公然化、日の丸・君が代の強制といった戦後民主主義的価値を一挙になし崩しにしてしまった事態は巧妙に隠蔽されたというべきだろう。
 ちなみに流行語たる死語にパソコン関係のものは意外に少ない。「インテリジェント・ビル」(88年)、「ヴァーチャル・リアリティ」(91年)などが散見される程度である。もちろん、小林信彦のメモランダムからは「インターネット」といった言葉が抜けている。軽いフットワークで時代を考察している同氏も「電網恢々疎にして漏らさず」とはいかなかったような気がする。オヨヨ。

§2《衰えぬLinux狂想曲》
 前回、TRONを東芝ノートブックパソコンのSatellite305CDTにインストールしたことを書いた。その後、富士通のデスクトップのFMV-DeskpowerSXにもフルインストールした。こちらも極めて軽快に動いている。少し古いパソコンにはこの種のインディーズOSは最適のようだ。もちろん、これまでDOS-Windowsの流れで様々なアプリケーションを使ってきた人間には簡単にTRON移行というわけにはいかないが、Windowsに飽きたときは結構遊べます、と言っておこう。
 DOS-DOS/V-Windows3.1-95-98と進んできた人間にとっては、TRONよりもLinuxのほうが身近かもしれない。つまり、DOS/Vの登場はそれまでのPC98に標準化されていた日本のパソコン文化をオープンアーキテクチャーの力によって、機種に関わりなく自由に享受できるようにするものだった。それによって、パソコンは一気に低価格化し、数年前には考えられない高性能のマシンが簡単に入手できるようになった。だが、DOS/VはWindowsに移行し、結果的にマイクロソフトの寡占による閉塞感にユーザーは襲われ、絶え間ないMSのバージョンアップに対し身銭を切らなければハードもソフトも取り残されることとなった。
 これに対して、オープンアーキテクチャーの活況を取り戻そうというのが、現在のLinuxの殷賑の背景にあるものだろう。確かに基本的に無料で提供されるLinuxは、繰り返される有料バージョンアップに悩まされる心配がない。しかも、CPU486、メモリー8メガか16メガのパソコンでも十分に動かすことができる。つまり、やる気さえあればもうWindowsに踊らされることはないのである。そして、ゲーム機やパソコンなど多くの情報機器にLinuxは採用されている。確かに時代は変わりつつある。
 「Linux狂騒曲」という副題のついた中村正三郎「特選 星降る夜のパソコン情話」(ビレッジセンター出版局 本体価格1400円)は、「MSの言論封殺」と闘ってきた闘士にしてプログラマ、文筆家の著者がLinuxにのめり込んでいく過程を再現した一種のドキュメントである。仕事上の必要もあって、ひょんなことからLinuxを導入し、旧型のパソコンでも軽い上、「WWWサーバは動くわ、FTPサーバは動くわ、会社のメインネットワークOSであるNetWareサーバにもつながるわで、予想以上に使える」というわけで、すっかりはまっていく姿が活写されている。
 中村さんはLinuxをめぐる状況を次のように捉えている。

 「情報化社会が発達するにつれ、OSやインターネットのソフトなど、情報化社会のインフラを支えるソフトは、公共財として、オープンであるべきと認識されるようになった。1社の独占を許すと、社会全体が1社に左右され、社会的リスクが高まる。マイクロソフト社が独占禁止法で米司法省から提訴される根本もここにある。/同社はパソコンユーザーを自社製品に囲い込んで、金を吸い上げ、ビル・ゲイツ会長を世界一の億万長者にしている。そんなビジネスモデルに対して、オープンソースは『1社独占で荒稼ぎすべきではない』と転換を迫ってもいる」(同書17頁)

 ここに、Linux派の主張が端的に示されている。無料であること、各種のディストリビューションがあること、高性能で安定性が高い−などの点が、Linuxを選択した理由である。これらがWindowsやマックOSにない優れた特徴でもある。面白いことに、Linuxユーザーは基本的にはPC/AT系、すなわちDOS/Vユーザーで、マックにはさほど関心や敵意を示さない。たぶん、自作派としてマックは論外であり、DOS/V機の自由さを味わいながら、マイクロソフトのWindowsがその自由を奪ったことに対する批判が背景にはあるように見える。
 個人事情はそのようだとしても、企業はどうか。ユーザー企業としては、WindowsNTにかかる経費、不安定さに対して、優れたシステム管理者がいればLinuxで対応できる。一方、ソフト提供企業としては、MSに奪われたOSとアプリケーションの戦場を新しい対抗馬であるLinuxに同伴して失地回復を図りたい狙いがあるようにみえる。

 「SunがLinuxに熱心に協力するようになったのは、企業向けのローエンドからミッドレンジ市場に浸透しつつあるNTを、Linuxに迎撃してもらいたいからだ。NTキラーとしてのLinuxである」(同書49頁)

 本書には、主な企業がどれだけLinuxを採用したり、その関連ソフトの開発に力を注いでいるかが書かれている。そして実際、本当に雪崩を打つように脱MS化の動きが進んでいることが、わかる。負け組企業が続々と参加している状況を見ると、LinuxがMSのシェアをかなり奪うことは間違いないように思う。
 ただ、中村氏のようなプログラマですら日々カスタマイズを工夫して使っているのがLinuxであることを思えば、僕のような全くの基礎をパソコンのベーシックを知らない素人には、やはり敷居が高い。やはり、ここはハードメーカーがLinuxのプリインストールマシンを競うように出して、一定の作業は安定的にできる状態を作り出してもらうのが一番だろう。そして、不足の分は、インターネットからソフトをダウンロードしたり、パッケージソフトを購入して拡張していけばいいように、要するに現在のWindows98のプリインストールマシンと同様にしてもらうのがいい。ハードメーカーの体制が変わるときが、分水嶺であり、状況が決定的に変わるときだろう。

 「オープンソースの世界は、共生・共存の考えで貫かれている。誰かひとりが大儲けできるわけではなく、また、それが主要なモチベーションでもない。『やっていると楽しい』『もっと人に喜ばれるいいものが欲しい』という純粋な気持ちが原動力だ。これからLinuxに参入する企業は、このオープンソースの思想を尊重する必要がある」(同書19頁)

 この中村氏の提言はいささか理想主義的であるが、こうした初々しさもまたLinuxの、というよりパソコンを愛し育てて来た人たちの魅力のような気がする。

§3《電脳浄土の文明批評》
 それにしても凄いノンフィクション作家だなあ、と思っている。誰かって? もちろん、吉田司さんである。実は最近までよく知らなかったのだが、「ニッポンの舞台裏」(洋泉社 本体価格1500円)を読んで、参った。ビートたけし、石原慎太郎、そして安室奈美恵らの本人も知らない実像に迫ってみせる。詳しくは言わないが、アムロ論を読んだらたぶん目からウロコが落ちる。略歴を見よう。
 吉田司。1945年山形県生まれ。大学在学中に映像作家・小川紳介と小川プロ結成、「三里塚の夏」など製作。1970年から水俣に住み、胎児性の水俣患者らと<若衆宿>を組織した。
 食えないはずだ。地獄を見ているのだ。「私のノンフィクションには2つの特徴がある。ひとつは右であれ左であれ、世の人々を支配する教条主義に挑む《神話崩し》。もうひとつは語る相手の言葉にたよらず深層心理を描き出す《心理ノンフィクション》であること」。なるほど。確かに、表現はそうした神話崩しの準位を獲得していることは間違いない。
 その吉田司が96年に上梓しているのが「ビル・ゲイツに会った日」(講談社 本体価格1942円)である。これは古い本だから皆さん、既に絶賛しているのであろうが、あえて言えば書かれていることは現在なお全く古びていない。そこが凄い。イントロこそビル・ゲイツをダシにしているが、残りは「電脳浄土放浪記」と題された渾身のルポルタージュである。そしてその立場は「滔々として進むデジタル革命の中では、解体され打ち倒されてゆく『賊軍』の眼から見た文明開化批評というのだってひとぐらいあっていい」というものだ。世にまかり通っているビル・ゲイツ論など批判であれ、お先棒担ぎであれ、パソコン時代=デジタル社会を肯定したうえで語られているのに対し、吉田さんの文章はそんな前提を疑ってスタートしているのが凄いのだ。
 
 「ビル・ゲイツとは何者かとお尋ねですか? /それなら彼は<小ささの権化>だと申しておきましょう。小さくて軽やかなもの、あるいは人間の幼さや若さといったものが時を得た時代の英雄といってもよい」

 これが書き出しです。ゲイツの誕生から1968年のベトナム反戦と<対抗文化>を管見し、「パソコン革命とは、『宇宙』と『反戦』、『国家』と『若者』の<小ささ>への奇妙な結託の中から生まれ出て来たのである」と断言する。これは要するに「国家と革命」だ。パソコン革命の背後には国家があるし、しかしながら若者たちは既成のものを倒すためにコンピュータのダウンサイジングを成し遂げたというわけだ。
 さらにマイクロソフト帝国の成立が革命の成功ではなく、革命の終わりだった、と喝破しつつ、ビル・ゲイツら米国の<対抗文化>世代が「ソフト海賊(パイレーツ)」となり巨大IBMの天下を倒したのに対して、日本の<異議申し立て>世代である全共闘と過激派はどうしたと返す刀で問うて見せるのだ。

 「就職転向した後も、心の中に社会主義的な“秘密の花園”を作り、いわば資本主義と社会主義の間を日常的に、都合よく往来するという自己欺瞞を演じ続けた。それによって、ほとんど心の痛みを感じることなく、80年代日本の経済大国化(=バブル)の最も忠実な先兵となっていったのではなかったろうか」

 このあたりは結構きつい。まあ、その辺の揺れは私のホームページをどこか見ていただくのもいい。それなら、あんたは? 吉田さんは水俣にいたわけだ。凄い。
 本書には「『機械と人間』は対立するものではなく、個人と社会を豊かにするために『共闘』しているのだという真夜中の<体感>を語りたがるこの電脳(デジタル)主義の萌芽形態は、意外なことだが、あの教条的な社会主義リアリズムの系譜の上にあるのだ」「あのなつかしい最初の<機械革命>だったロシア革命のスローガンは、きっとこう書き直されるだろう。<万国の機械(コンピュータ)よ 団結せよ>と」など刺激的な考察と断言があふれている。
 確かに強烈な文明批評である。吉田さんは電脳社会を全否定しているのかと言えばそうではない。最後に書いている。「もし将来、世の中があまりに<裏ユートピア>の暗黒面ばかりを憂うる時代になったら、きっとその時にこそ私は電脳社会がもつ解放性について語りたいと思う」。なんともしぶとい作家であるまいか。


【パソコンを読む】11 《独占は進んでいる、だが今は過渡期社会だ》 (2000.5)

§1《ソフトがハードを圧倒する》
 実はパソコンについて、気分は満腹状態だ。「他人のことなんて、どうでもいい」。そんな気持ちなのだ。愛用のリブレットM3だが、ハードディスクを8.1ギガバイトに換装してもらった。その費用わずか35000円。それで2.1ギガの標準仕様から4倍増。もう怖いものなし。ワード、エクセル、ワークス、一太郎のおなじみソフト類はしっかり入っており、そこに気軽にCDの百科事典、国語辞典、英和・和英辞典、ブックシェルフ、さらにミュージックCDなどをインストールしても、まだ4ギガバイトが空いている。それで、ウィンドウズ98がバリバリ走って重さ985グラム、やや大きめの新書サイズ。バッテリー2本で8時間は使えるとなれば、モバイル生活は快適快適。3キロ前後の大型マシンを抱えて動き回っている人を見ると、ご愁傷様と思うだけ。しかもこれにPCカード型PHSのP−inを装着すると、64KbpsでインターネットやEメール、そしてパソコン通信に、いつでもどこでもアクセスできるようになった。公衆電話を探す苦労もいらないし、ストレスが大きかった携帯電話を使っての9600bpsでの通信に比べると、本当に便利だ。MMXペンティアムの133MHZという点を、非力に感じそうだが、正直言って、画像類をいじり回す趣味のない小生には全然問題なし。手持ちのパソコンでも仕様的にはリブレットM3の3倍上を行く某社のマシンなんかより、明らかにレスポンスは速いほどだ。ノートPCではソニーのバイオには人気では圧倒的な差を付けられてしまった東芝ダイナブックやリブレットだが、M3クラスのマシンを10万円程度で出せば、大ヒット間違いなしだろうになあ。使いやすさより、いたずらに性能競争に陥っているメーカーはどうかしているのではないか。なにウィンドウズCE機? ありゃあ、まあ論外です。
 だから他人のことやパソコンのことなんかどうでもいいのだ。
 とは言うものの、少しは本の話をしよう。啓蒙書ばかりだが、ずいぶん面白かったのが辛坊治郎著「TVメディアの興亡」(集英社新書、本体価格660円)という本だ。今年、日本のテレビ局はデジタル、デジタルと、それは上を下への大騒ぎだ。一部ではマイナーな地上波局の中には倒産やら統合論やらも飛び交っているらしい。そのデジタル革命に脅かされているテレビ業界の実状をアメリカの現場からからリポートしているのが、辛坊さんだ。
 辛坊リポートが明らかにしていることは端的言えば2点に尽きる。1つ。アメリカのテレビ界は企業の連合による独占化が進んでいる。2つ。ソフトがハードを支配しつつある。これはアメリカのことだが、きっと日本でもそうなるっていくだろう。だから、この本は結構、まじめに読むべきと思う。
 まず独占とは何か。地上波、ケーブル、衛星とテレビ媒体はいくつかあるのだが、そのジャンル分けは無意味だという。なぜか。
 「例えば、ケーブル・チャンネルの王者ESPNは、フットボール中継で毎回10%近い視聴率を上げ、従来のネットワークの顔色を失わせるに十分なパワーを持っているのだが、実はこのチャンネル、その3大ネットワークの一つABCの傘下にある。/また、地上波の解説で記したように、アメリカのプライムタイムの高視聴番組は、ほとんどをハリウッドの映画産業の番組制作プロダクション部門が作っており、この分野こそ、今やそのABCの親会社となったウォルト・ディズニーの本業である。そのディズニーの膨大なフィルム資産は、また衛星放送にとって、スポーツと並ぶ最大の飯の種となっている」(同書84頁)
 形はともあれ、ウォルト・ディズニーを中心にした資本が、メディアを支配しているというわけだ。もちろん、ディズニーだけではなく、このほかタイムワーナー、ヴァイアコム、ザ・ニューズコーポレーションなどが独占の主役である。
 ちなみに、こうしたアメリカの独占資本の形を、もう少し分かりやすいチャートで読みたいという人には広瀬隆の「アメリカの経済支配者たち」(集英社新書、本体価格700円)がオススメである。彼の本を読んでいる間は、私も「赤い楯」が世界を支配しているという構図に感化されているといってよいほどだ。ただ広瀬論が国際的資本・人間群を優先的に考えるのに対して、私は国家−共同体の枠を無視しない(資本家も労働者も即自的には一国的に登場する)というふうに考えており、そこが最終的な分水嶺ではある。それでも多くの点で広瀬さんの綿密な論証には同意する。
 広瀬さんは、先のディズニーの支配をロックフェラー財閥によるものとして、「エクソン(石油王ロックフェラー家)→石油王ハント家→石油王バス家→ウォルト・ディズニー社→マイケル・アスナー会長→マイケル・オーヴィッツ社長→ABC放送→ハリウッド映画スターとテニス、アメリカン・フットボール、バスケット・ボール、映画の海外配給会社ブエナ・ヴィスタ・インターナショナル」とチャートを描いてみせる。
 ついでながら、我がマイクロソフトとインテル連合はモルガン財閥に属する。その金融支配系統は「J・P・モルガン→GE→RCA→NBC→マイクロソフトNBC」となり、さらに「NBCは半導体の最先端をゆくインテルのアンドリュー・グローヴと提携して、テレビとインターネットの双方向システムのインターキャストに乗り出した」と分析されている。そして、ビル・ゲイツら7人のメディア王はウォール街の投機屋の屋敷に集合して記念撮影していたというのだが、ここまで来ると、陰謀論まで、あと一歩なのでやめよう。読み物としては広瀬さんのものは歴史の勉強になるし、全て折り紙付きで楽しめると断言できる。
 閑話休題。TVメディアの興亡に戻る。
 第2のソフトの優位とは何か。もちろん、マイクロソフトがIBMを圧倒したということを今更言っているわけではないが、どこか似ている。力関係の逆転だ。
 「多メディア化に伴うソフト不足は、当然のことながらソフトの価格の高騰をもたらし、ハリウッドにとっての売り手市場が形成された。そして、徐々にソフトを作る側と、それを流通させる側の力関係が逆転していったのだ。/ソフト制作の雄、ディズニーによるABCの買収は、この意味でメディアの歴史における転換点と言ってもいいだろう」(辛坊著97頁)
 そして、日本だ。この国では未だ放送免許に基づいて保護されている地上波局が我が世の春を謳歌している。だが、デジタル化と多チャンネル化の大波がまもなくやってくる。
 「ソフト制作という、メディア生き残りの決め手を持たない企業は確実に滅びるということだ。/もちろん、手厚い国家的保護の下で、高コスト体質の染みついた日本の放送局群が、今のままの体質、態勢で21世紀に生き残れるはずはない」(同書215頁)
 まもなく火蓋を切るであろうデジタル放送が、そのリトマス試験紙になることはいうまでもあるまい。
 日本のテレビ局の命運がドラスティックに変わることへの関心が実はこの節のテーマではない。同書で一番ショッキングな描写はAOLによるメディア界の最大巨人のタイムワーナーの買収である。テレビ人である辛坊さんは本当に驚いている。「釈然としない」「企業の“格”が違いすぎる」。辛坊さんの嘆きが見えるようだ。
 つまり「たかがインターネットプロバイダーにすぎない」AOLが、メディアの未来を示しているのか、ということだ。このことが、どこまで真実か。日本でも、明らかにインターネットバブルがはやされ、もともとの出版業から、株式やらネット銀やらの音頭を取る企業まで出ている。これは経済の問題なのか。社会構造の転換の象徴なのか。それとも広瀬流に国際資本の見えざる手が動いているのか。
 ちなみに辛坊さんは「バブルはいずれ破裂する。その破裂の後に見えてくる道が、本来の次の世紀の青写真なのだろう」と書いている。
 これをテレビ人らしい結論と言えるかどうか。私にもわからない。だが、メディアは古い形式の企業を無慈悲に踏み越えて、再編が進むことだけは間違いない。

§2《ネットワークの存在論》
 さて、メディアの変遷、経済構造の変化についての本を読んだ後は、その変化の背後にあるものについて少し考えてみたい。
 テキストは江下雅之「ネットワーク社会の深層構造」(中公新書、本体価格840円)である。
 この本も啓蒙書であるから、特別面倒なことが書いてあるはずもない。しかし、江下さんが指摘しているネットワーク社会が「薄口」の人間関係の時代を象徴しているという見方には、納得させられたと言っておきたい。加えて、インターネット時代が何か特別な状況を招来せしめているかのような事大主義に対して、これまでのメディアの変化と受容の形式の変化の上に、インターネット・ブームももたらされているのだという正論を、大変穏やかな語り口で説いていることは同書の手柄であろう。
 実際、僕らはワープロからパソコンへ、そしてパソコン通信からインターネットへと移ってきたのであるが、これが格別すごい変化だとは思わない。移るべくして移ってきたという感じである。それは多分、DOSからウィンドウズ95への移行も同じである。マイクロソフトの誇大宣伝や、それに煽られた「おじさん雑誌」やらが「パソコン使えなきゃ、時代に取り残されるぞ」式の強迫神経症をいたずらに刺激しようとも、僕らにはホント、自然な歩みのように思えたものだ。逆に言えば、パソコンなんか必要ないというのも、一つの現代的な立場であるし、パソコンが目指してなしえないものこそ、普通の大衆が普通の道具として使えるパソコンの完成である。たぶん、現在のようにキーボードに特化されたパソコン、そしてスタイルはどうあれ、デスクトップにどっかりと構えてしまい、一方で3キロを超えていながらモバイルだなどといっているパソコンは、大衆が主役の時代の道具としては極めて非行を犯している存在と言うべきであろう。
 現代のネットワーク社会の背後にあるものとは何か。
 「血縁・地縁が強固な共同体では、人間関係は宿命的な出来事であると同時に、生存に不可欠な要素でもあった。しかし、都市化によって人間関係は選択的な要素へと変化する。大都市のマンション住民は隣人の顔を知らないというが、言い換えれば、隣人と接することが生活上、必須ではなくなったということだ。ほしいと思うモノ・コトは、ほしいときに市場から調達すればいいし、いらなくなったら購入をやめればいいという発想が、人間関係にもおよんだのである。これは都市化の必然的展開といっていい」
 この文章の面白いところは、都会が人間砂漠であるかのようなバイアスのかかった見方を避け、隣人を必要としなくなった社会の到来を素直に捉えていることである。隣人の顔を知らないというのは、良いとか悪いとかではなく、生存の上で必要のないためだというわけだ。
 その上で、<市場>という見方を人間関係にも徹底する。ネットワーク上の交流を<人間関係市場>として押さえ、「他者との交流を直接・間接の目的としてネットワークに接続し、選択的な交流をはかる人がいるということは、そこに一種の『人間関係の自由市場(フリーマーケット)』が形成されていると見なせるはずだ」と分析してみせる。そして、現代人が求めている「薄口」の人間関係のきわまった形態がメディア上で完結する交流であるという。
 江下さんが紹介している「バーチャル・コミュニティの過去・現在」という章の雑誌媒体での論争、ラジオが拓いた「もう一つ別の広場」、濃厚な無線の世界、ダイヤルQ2がもたらしたプレ・インターネットの世界などは極めて興味深く、ある意味で懐かしい物語である。
 「ネットワークが90年代という時代に受け入れられたからには、社会の側にもそうなる環境が存在したということだ」という考えに僕は同意するのだ。
 江下論はネットワーク社会の未来など構想しない。ネットワークが人間関係を「調達」する市場であることを指摘するに留まる。だから、ネットワークというより、インターネットなんかやらなくても豊富な人間関係を調達できる人には、現代のテクノロジーに右往左往する必要なんかないということだ。
 IT革命やらE型人間やら、言葉ばかりが舞っているが、時代は決して革命状況にあるわけではない。依然として僕らは、70年代思想が告知した深刻な過渡期社会にいるのだ。


【パソコンを読む】12 《戦後逆流とネットバブルを超えて》  (2000.6)

§1《吉本隆明の復活と副島隆彦の錯誤》
 この国は根本から腐り始めている。と思う瞬間がある。
 少年犯罪の続発を嘆いてみせる大人たちは顧みて他を言うには、自らもまたその資格に欠けていることを知るべきだ。非行などというものは、おそらく皆が虞犯者であることを見つめ直すことから始める以外に対策はないのだ。国家権力者がいとも簡単に少数の密室政治屋のクーデター的謀議で葬り去られるということは、この国の民主主義の成熟の情けない低水準ぶりを見事に示してくれた。こんな謀議で政権交代が許されるなら、少年犯罪など罪は遙かに軽い。少年犯罪が無知の非行なら、この国の政治屋は自らの所業の犯罪性を知りながら、法を破っているのだから。倫理というものを「教育勅語」に従って説きたがる政治屋こそ、それとは無縁の存在であることを教えてくれた。
 病に倒れた前首相とは、そうした腐り始めた社会を象徴する政治勢力に担がれ、葬られた存在であると私は考える。彼の為したことの多くは、国家が生まれ国家が消えていくという共同幻想のダイナミズムを遠望する時、世界史的反動と見られることがらばかりである。そういうと、「何が?」という人があろうから答えておく。
 周辺事態への軍事行動に道を開いたこと、国民の基本的人権を著しく踏みにじる盗聴法を成立せしめたこと、日の丸・君が代を国旗・国歌としたこと。
 少なくともこの3点をもっても、その世界史的反動性は明らかである。
 私は吉本隆明から多くを学んできた人間であるが、国家戦略などを語る人は、せめて氏の『私の「戦争論」』(ぶんか社、1600円)を読み直していただきたい。大衆が主役となる時代を一貫して支持してきた真性民主主義者としての吉本隆明の真骨頂が示されたものとして、同書はほんとうに見事である。
 「戦争というものは、勝っても負けても、民衆にとっては得なことは何もない、何もあとに残らないよ、というのが僕の実感なんです。『戦争自体がダメなんだ』ということ−−日本国の憲法第9条は、その理想に近づきうる憲法だということです」「国民国家解体の兆しは、すでに先進国で出ているじゃないですか。日本を含む先進資本主義国の今の課題は、いかにして、自国の民衆や他国の民衆に対して国家を開いていくか、ということにあるんです」
 国家がいかに開かれるべきかという高度資本主義状況に対して、国家を古い形で閉めておこうというのが、先の政権中枢の考えたことだ。スターリニストもファシストも同じだね、と未来からの声が笑うだろう。
 根っからのスターリニスト体質が抜けない谷沢某的頑迷爺や、株屋発想で90年代日本の戦略を読み違えて反省もしない長谷川某的な考古学的存在は論外にしろ、わが副島隆彦の国士ぶりも困ったものだ。副島の研究は凡百の保守思想家のレベルを超えた、ある種の迫力がある。「なるほど」と感心したことも多い。だが、戦後史をアメリカという超帝国主義国家論に基づくヘゲモニーから分析する手法には疑問を感じている。忘れていたが、私はかつて、「自分もまた吉本主義者だった」という葉書を、副島という人からもらったことがある。その不遇の中で着実に歩もうとするひそやかな手紙の主が、今や「民間人・国家戦略家」を名乗る人物と同一だったのか、私にはわからない。
 だが、60年安保闘争を、一種の超帝国主義史観によって陰謀論的に解釈するとすれば、吉本隆明は「わが弟子にあらず」と、言うだろう。『日本の秘密』(弓立社、1800円)などで副島が描いてみせる「反60年安保闘争の悪煽動」こそ、歴史は繰り返す非行というものか。ちなみに、この出版社の社主こそ吉本隆明の『自立の思想的拠点』の編集者! であったはずで、にんげん長生きをすると様々な喜劇をたのしめるというものだ。
 「吉本隆明ほどの知識人であっても、自分を含めて学生たちの行動が、大きくは、政財界人や警察官僚に利用され操られていた」と、副島が安保全学連や知識人を泳がせ論的に書くとき、本人がいかに違うと逃げを打とうとも、君は吉本主義者なんかじゃなく反米愛国のスターリニスト党と同じ位相にいるのだね、と言ってやろう。本当に、この人の国益論はスターリニスト党とよく似ている。歪んだエリート意識とコンプレックスこそ、吉本隆明ではなく小室学派の特徴だろう。
 この副島には社会の内発的な力を、理解する感性が欠けている。ベトナム民衆の戦いをスターリニズムと見るのではなく、彼らの内発的エネルギーを民族主義にからめとられない形で評価することこそ、70年代反戦論のもっともスリリングな到達点であったというのに。60年安保もまた、陰謀論にかすめとられぬ国際的な枠組みを突破する民衆の自立への過渡であった。
 自立する大衆像を内視できないから、副島は安易に「属国・日本論」などへ退行してしまうのだ。そしてそこで彼は米国共和党的な保守主義の立場から日本の戦略を考えようというわけだ。国士はドンキホーテとして超権力の幻を見ているだけだろう。だが、少なくとも吉本隆明と我が自立派は、大衆存在に国家を超える可能性を見出し進んできたのだ。
 21世紀が意味あるとすれば、既に大衆が主役となりうる時代に移っていることだけだ。ここにこそ、日本社会の良き徴候がある。腐り始めた政権はその良き徴候を後戻りさせようという非行に走った。そして、民間戦略家たちは、愛憎を重ねながら米国の磁場で、世界標準への馴致を模索しているのだと言える。だが、そうした上下からの盲動を阻むのは、闇を抱えた少年たちを、ガングロ・ヤマンバの娘たちを、アジアから吹き寄せてくる難民たちを、労働者存在の世界性から対象化していく大衆の開かれた自立思想だけである、と思う。

§2《悩ましいワープロソフト》
 パソコンをめぐる話題を論ずべき本稿も、私的理由により今回で中仕切りとなる。それゆえ焦眉の急の時と思い、情況論に手を広げた無礼を許していただきたい。
 思えば、小生のような文系人間がパソコンについて何かを書くべく連載を引き受けたのも、専門家のパソコン論より、素人の実感こそがパソコン・バブル状況に対する参考になると信じたからである。
 私は本稿に臨む原則論を語っておいたことがある。すなわち、「ハイパー空間で<自立派>を気取るのもいかがなものかと思うが、少数の前衛よりも大衆の利益に価値の基準を置くというのが、自立派の基本である。大衆的動向から孤立しないこと。情報帝国主義社会においても大衆の自立こそがキーワードである。まさにその指示向線から、パソコンを巡る現象を読み解いていくことこそを、ハイパー自立派の要諦としたい」というものである。
 <iMac>購入からスタートした私のパソコン新体験を総括すると、どうもハード面では進歩はなかった。<iMac>はこのほどマック使いのグラフィックデザイナーの所に、嫁に行ってしまった。さらに、1年前当時の最新ノートマシンも知人の娘の大学生のところに婿入りしていった。結局残ったのは、ダイナブック2台とリブレット2台。ちなみに、インディーズOSといわれる<B−TRON>(B/Right−V)の超漢字もハードディスクには残っているものの、ほとんど使われていない。OSの主役は依然としてマイクロソフト製である。
 人間というものは、どうも余りドラスティックには変わらないものらしい。その私が最近一番頭を悩ませている問題を挙げておこう。それはワープロソフト選びである。
 保守的な私がワープロに見切りをつけ、パソコンへと移行したのは、機種に依存するワープロの煩瑣さへの嫌気からであった。ところが、パソコンも汎用性があるのは、エディタだけで、いわゆるワープロソフトは対象外であった。そこで、いささか失望したことはいうまでもない。それでも、以前は「一太郎」がDOS時代からの実績で主流というか、基本となっていた。しかし、近年はマイクロソフトのパッケージ商法が実り、ワードが圧倒的にシェアを伸ばしている。たぶん、ワードのほうが標準になっていると見られる。
 だが私は何を隠そう一太郎派である。ノートパソコンは一太郎ライトを基本に、そのほか一太郎ホームなども使っている。DOS時代の一太郎ダッシュ以来、ウィンドウズに移行してもバージョン6、7、8、ライト、ホームと付き合い(10は試用したが、ほとんど使わず)現在に至っている。
 取り敢えず、歴代の一太郎で作った文章類がそのまま使えるのが継続して試用している第一の理由である。そのほか、Escキーで簡単にコマンドを出せるのが、結構気に入っていたり、文字と行数を指定して文章を書くスタイルが自分の習慣に適しているからでもある。先ごろも400を超すテンプレートと図を収録した「雛形一番 一太郎8編」(日経BP販売、2900円)などというマニュアルを購入して、文書作成に利用している。
 ところが、会社仕事ではMSワードを使うことが多くなっている。そちらは共用のパソコンで作業しているので、勝手に一太郎文書を作ると、ほかの人が作業をする時に混乱してしまうためである。おかげで、ワードをいやいや使っているうちに、結構、慣れてしまった。また私用でも、このほどクラス会のリポートをワードで作った。こちらは印刷を業者に任せようと思っていたのだが、データ持ち込みができるのはワードやエクセル、マック系のイラストレーターなどに限られていたため、一太郎を使うのをためらってしまったのだ。ことほど左様に、業界的には一太郎よりもワードのほうが、主流になっているようなのだ。また、学者などで原稿を書く人にもワード愛好家がおり、電子メールなどの添付ファイルにワードの文書を入れてくるため、否が応でもワードを使わないと文章を見られないこともある。
 要するに現在の私は、ワープロソフトの使用に際して、一太郎とワードに引き裂かれている状態なのだ。しかも、ワードも一太郎も頻繁にバージョンアップをしており、ソフトウェアのバージョンアップがハードウェアの更新を促すという利用者無視の悪循環を強制しているのだ。ネットワーク社会だから、誰かがソフトのバージョンアップをすると、ほかの人間もバージョンアップをしないと、ファイルを開けなくなってしまう。これは困ったことである。これらのソフトは抱き合わせ販売はされていても、無料ではない。結局、私は薬漬けの患者よろしく永劫に、彼らの商売につき合わなければならない運命にあるというわけだ。

§3《夢の終わり現実の始まり》
 前回、リブレットM3で快適生活を送っていることを自慢したが、実は一転辛酸をなめることになった。リブレットの液晶画面がダウンしてしまったのだ。真っ暗な画面は怪しげにラインらしきものを走らせるだけで、色も文字も見えない。やむなく業者に頼み修理してもらうことになった。部品代と技術料併せて約56000円。結構な値段である。ためらうところだが、リブレットM3なしには私のパソコンライフはないので、部品を交換してもらった。
 パソコンは安くなった。だが、一度買ったパソコンを直すとなると決して安くはない。液晶ディスプレーしかり、ハードディスクしかり、キーボードしかりだ。そして携帯して使用頻度が高いほど、パソコンは壊れるものである。そのことによって、多大な出費を強いられるものである。下手な修理をするくらいなら、新品を買ったほうが安いというのが実体かもしれない。
 ここで私が言いたいことは、パソコンは使い捨て商品になっているということであり、消費者にとって、より快適に使うためにはなんとも金のかかる商品だということである。
 こうした大衆レベルの困難と比較すれば、「ネットバブルの崩壊」などインターネット社会を投機的に見ていた部分の混乱を示す脳天気なものだ。「論争東洋経済」7月号(東洋経済新報社、1143円)が「IT革命とネットバブル」、「世界」7月号(岩波書店、743円)が「ネット社会−何が起きているのか」の大特集を組んでいる。リベラルな視点で経済的非行を解析しようとしたはずの「論争」は編集部の意図に反して、その基調は「ネット関連株のミニバブル崩壊は健全な調整であり、日本もようやくIT革命の第2局面に入った」(中谷巌・三和総研理事長)とする日和見主義的傾向に流れてしまっている。「ネットバブルは詐欺」とするところまでの論争を引き起こそうとした狙いが外れ、エコノ系の批評家の頽廃は、「モラトリアム経済の副作用は、論争の場でも確実に起きている」と編集後記に書かざるを得ないまでの状況にあることを示した。
 一方、「世界」は一連の電子メールウイルス騒動や不正アクセスに対して、「エスタブリッシュメント(体制)がハッカーを生み出す元凶」(赤木昭夫・放送大学教授)との分析に冴えを見せながらも、「インターネット新時代宣言」では個人情報の管理については一元的集中管理ではなく「市民の信頼を基礎にした、自治的コントロールを尊重し、それぞれのコミュニティでそれぞれのルールに従って、個別に自主的に管理する」(牧野二郎・弁護士)という、いつもながらの小市民進歩主義に留まっている。
 ネット社会は大きな枠組みでは国家−軍事ヘゲモニー下で準備されてきたのであり、ネットワーカーもハード・ソフト企業のヘゲモニーの下に動かざるを得ない。その中で、仮想的な自由を謳歌していることを踏まえねばなるまい。天上の問題を地上の問題に引き戻すこと。若きマルクスなら、そう語るだろうというのが今回の結語である。

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