<北海道文学館>草創の頃の記録
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伊藤整の原稿
北海道立文学館は札幌の中心部・中島公園にある。公園は春には桜、夏には祭り、秋には紅葉、冬には歩くスキー、という具合に四季を通じてにぎやかである。
公園の中ほどの東側にあるのが道立文学館だ。こちらも年間を通じて展覧会や朗読会などを開催、多くの人が足を運ぶ。開館は一九九五年九月なので、この十月で二十年目に入った。
道立文学館ができる端緒になったのが、さらに三十年近く遡る六十六年十月に開催されて大成功を収めた「北海道文学展」だった。開拓に急で文化的な営みを振り返る余裕のなかった状況に対し、資料をきちんと保存し研究していこうとの狙い。
詩人で郷土史家の更科源蔵を委員長に、全道の文学者、研究者、文化人、諸団体が結集し、実行委員会がつくられた。地元だけではなく東京で活躍している北海道出身の文学者の協力も得られたことが初のイベントを後押しした。
その軸になったのが小樽出身の詩人で小説家・評論家の伊藤整(一九〇五~六九)。「北海道文学(史)展の意義」という原稿が残っている。その中で伊藤整は道産子作家たちが「日本文壇に独自の清冽、強靱な北方の精神を吹き込んだ」と評し、「北海道文学全体の珠玉、遺品を集成し、これを土台として今後の北方文学の新しい展開を期待するのは、まさに文化史上一事件と言うべき」と称賛したのだった。
伊藤整の応援に励まされ、北の地に新しい文学館運動が始まった。(2014/10/16)
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「北海道文学展の色紙」
一九六六年の「北海道文学展」は十月二十五日から三十日まで札幌・丸井今井でパートで開かれた。北海道ゆかりの作家コーナーに生原稿や単行本、雑誌、写真、説明資料などが並ぶ。特に評判を呼んだのは文学者たちがチャリティーで書いてくれた色紙類だった。全部で五百枚ほどが飛ぶように売れた、と言われる。丸井デパートは開館時間から人であふれ、六日間の入場者は二万人にのぼった。
道新ホールでは文芸講演会が開かれ、こちらも超満員だった。大江健三郎(一九三五~)が「文学と未来のイメージ」、中野重治(一九〇二~七九)が「北海道の作家たち」、伊藤整が「北海道・文学・私」、と題して演壇に立った。「ノーベル賞作家」となる大江健三郎はまだ気鋭の若手であった。中野重治はプロレタリア系作家であるが、伊藤整と並んで、戦後文学の重鎮であった。
伊藤整が道新ホールで講演する姿を捉えた写真が残っている。まるで後光が射すかのように、道民の、文学の力言葉の力に寄せる思いが伝わる一枚である。
三人に実行委員長の更科源蔵が加わって記された色紙がある。「北海道文学史展のために働いた人々への感謝」と書かれている。中野重治はあまり色紙を書かないと言われていたが、伊藤整が書き出すと続いてペンを取ったという。色紙は縦十四㌢横二十㌢と小振りであるが、経歴も作風も文学観も異なる四人が一つの場に集うことで、北の地の文学運動を立場を超えて支えようという気合いが伝わってくる。(2014/10/23)
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解散式の巻紙
一九六六年十月の「北海道文学展」の大成功に、道内の文学関係者は勢いづいた。文学展終了後、十一月七日に開かれた実行委員会では、この取り組みを新たな文学館設立の会に発展させることで満場の一致をみた。同月二十九日には新組織のための準備会が開かれている。
文学館設立へ盛り上がりを見せる中で、十二月九日に北海道文学展実行委員会の解散式が開かれた。場所は豊平区平岸の天神山にあったレストラン「百景園」。解散と言っても一時の別れで、さながら、次への飛躍への結団式のようでもあった。
縦二十五㌢長さ四百五十㌢という連判状のような長い巻物の寄せ書きが残っている。くるくると転がして開いていけば三十人に及ぶ名前とひとこと集が並んでいる。
「何も言ふことなし有難う」更科源蔵、「酒・雪・人の心」澤田誠一から始まり「万感交交」山田昭夫、「友交うれし」富岡木之介、「グットバイ」佐々木逸郎、「この泥炭の土壌の上に北海道の文学を樹てよ」渡辺茂、「栄光あれ」神谷忠孝、「十年の昔を思う」和田謹吾、「されどわれらが日々」小笠原克、「いい感じ」西村信-など、草創期の文学者らの回顧とともに高揚した思いがしたためられている。
こうした在野の文学者たちの熱意により、六七年四月二十二日、札幌テレビ塔二階特別室で「北海道文学館」創立総会が約六十人の参加で開かれた。北海道文学の発展及び資料の収集・研究を掲げ、それとともに拠点施設つくりを目指す運動体としての北海道文学館が正式に立ち上がった。(2014/10/30)
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有島武郎「有島武郎展」
わが国の文学運動のナショナル・センターと言えば、東京・駒場にある日本近代文学館である。伊藤整を理事長に、一九六七年四月十三日には駒場公園に運動の拠点となる施設としての文学館が完成している。
北海道文学館が任意団体として産声を挙げたのが六七年四月二十二日。中央の文学館運動にいち早く連動しているが北海道であったことがわかる。
始動した北海道文学館が発足記念として一九六七年秋、最初に手がけたのが「有島武郎展」。「カインの末裔」「小さき者へ」などで知られる有島武郎(一八七八~一九二三)は北海道の文学を代表する作家だった。会場は現在のパルコの場所にあった老舗書店の冨貴堂。入場料は大人80円だった。展示のある三階ホールまで、階段には人があふれ、十二日間で一万人を超す人気だった。
ちなみに同展と連動して産声を挙げたのが北海道新聞文学賞。会期中の十月三十一日に第一回の贈呈式が開かれている。
ところで、北海道文学館は運動が始まったものの拠点はなかった。しばらくは事務局長の木原直彦(北海道文学館名誉館長)の勤務先を事務局にしていた。その後、札幌時計台を経て、73年に札幌市資料館内で展示を行うとともに事務所を置いた。
88年に財団法人となるとともに、道立施設の実現の声が高まった。これに応え、「公立・民営」の北海道立文学館が一九九五年九月二十三日、札幌・中島公園に開館したのだった。
現在、北海道文学館は公益財団法人となり、指定管理者として道立文学館の運営に当たっている。(2014/11/06)
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安部公房の「はがき」
安部公房(一九二四~九三)は「ノーベル文学賞」の最有力候補と言われたほどの世界的な作家だ。
「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」など失踪を扱った三部作のほか、「箱男」「方舟さくら丸」「榎本武揚」などの奇想天外な話題作がある。
東京生まれ、満州(現中国東北部)育ちだが、両親は今は旭川市の一部になっている東鷹栖地区の出身。公房は子どものころ、毎年の夏を東鷹栖で過ごし、小学二、三年生の時には地元の学校に通っている(このほど当地に安部公房記念碑が建立された)。「氷点」の三浦綾子は公房より二歳年上、二人の偉大な作家が小学生として同じ旭川のマチをすれ違っている姿を想像するのも楽しい。
満州での過酷な体験から生まれた「砂漠の思想」や都市論としての「内なる辺境」をテーマに作品を書き続けた。公房にとって北海道は広漠な満州に重なるものがあったと思われる。
その公房が「壁-S・カルマ氏の犯罪」で第二十五回芥川賞を受賞したのが一九五一年。それからまもない五四年十一月に、北海道を代表する文芸同人誌だった「札幌文学」に寄せた貴重な一枚のはがきが道立文学館に残っている。
「特殊性のなかにほうがん(4字傍点)されない普遍性はない。同時に、普遍性につらぬかれない特殊は存在しない」「私は、地方という言葉を、風土的にとらえることは反対だ」と独特の字体で書かれており、「北海道」主義的な文学観には批判的だ。ナショナルなものを超えようと苦闘した公房らしい故郷への文学的意志表明として重要である。(2014/12/25)
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「無名詩集」「終りし道の標べに」
東京と満州(中国東北地方)と旭川を故郷とする作家、安部公房は『第四間氷期』『砂の女』『箱男』など、今なお新鮮で刺激的な実験的小説を多数残している。
ノーベル賞最有力候補とも言われたほどの文学者であるが、詩集は一冊しか残していない。それが一九四七年五月ころに自費出版された「無名詩集」である。
公房二十三歳。三月には夫人となる山田真知子と出会い、同棲したばかりだった。公房はそれまで書きためていた詩をまとめ、世に問おうとした。基底に流れるのは孤独な魂の凝視である。
じつと噛みしめて
もう二度と笑わなくなつ た唇が
細々と語る悦びを私は愛 した
巻頭の「笑ひ」から散文詩、エッセーを全部で十四作品が並ぶ。ガリ版で刷り、ホッチキスで留めただけ。表紙にはデザイン画もなく文字のみで「無名詩集 安部公房」とある。わら半紙62ページの極めて質素な冊子。公房はそれを友人や北海道の親類などに一冊五十円で頒布したが、ほとんど売れ残ったという。
この詩集を最後に詩人としての活動は幕を閉じる。しかし、それは小説への出発でもあった。同じ年九月に小説「粘土塀」を書き上げる。それは翌年「終りし道の標べに」と改題され雑誌に掲載、十月には真善美社から「アプレゲール新人創作選8」として刊行された。ちなみに同社は同時期に埴谷雄高の『死霊』(第1巻)を刊行している。創作選1は野間宏『暗い絵』、2は戦後派文学を「アプレゲール」と名づけた中村真一郎『死の影の下に』(第1部)であった。
「旅は歩みをはつた所から始めねばならぬ。墓と手を結んだ生誕の事を書かねばならぬ」との書き出しで始まる「終りし道の標べに」は満州で亡くなった親友の思索をたどった物語。越境する存在への固執は公房の原点を示す記念碑的作品であった。
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武者小路実篤の書「小さき者へ」
札幌・大通公園は市民の憩いの場所であると同時に文学碑やモニュメントの名所でもある。たとえば大通公園の西三丁目には石川啄木がいる。そして、九丁目で重量感にあふれているのが有島武郎文学碑である。
同碑が建立されたのは一九六二年九月二十二日。有島武郎記念会によるものだ。題字を同会理事長の半澤洵が書き、碑文は有島武郎と同じ白樺派を代表する文学者である武者小路実篤(一八八五~一九七六)が揮毫している。ブロンズ彫刻は藤川基、台座は山本一也の作。除幕式には有島の弟の生馬(一八八二~一九七四)らゆかりの人々も参列した。
「小さき者よ 不幸なそして同時に幸福なおまえたちの父と母との祝福を胸にしめて人の世の旅に登れ 前途は遠いそして暗い しかしおそれてはならぬ おそれない者の前に道は開ける/行け 勇んで 小さき者よ」
有島の作品「小さき者へ」末尾から取られている言葉は、時代を超えて、幼き者小さき者たちを励ます力にあふれている。
この武者小路実篤の書の額に入った実物が文学館に残されている。草創期の事情に詳しい木原直彦名誉館長によると、もともとは「有島武郎記念会があった札幌観光協会の倉庫に埋もれるように置かれていた」そうで、まさにお宝が眠っているのを発見し、保存したものだった。
額装された文字は少し傾いているように見えるが、理想を生きた作家らしい誠実さが伝わってくる。(2015/01/15)
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渡辺淳一「リラ冷えの街」の原稿
道立文学館では現在「没後1年 渡辺淳一の世界」展を開催中である。
きょう四月三十日は命日である。昨年八十歳で自宅で亡くなったが、まことに時が過ぎるのは速い。
渡辺淳一は一九三三年十月、空知の炭鉱町だった上砂川で生まれた。七〇年七月に優秀な大衆文芸作品に贈られる直木賞を「光と影」で受賞している。
炭鉱マチ出身の同世代の作家には一九七八年に「伸予」で芥川賞を受賞した高橋揆一郎(歌志内)、七九年に「やまあいの煙」で同賞を受賞した重兼芳子(上砂川)がいる。これらは繁栄を誇ってきた北海道の炭鉱マチの文化的水準の高さを伝える好例と言える。
直木賞受賞を予想していたかのように、七〇年七月、北海道新聞日曜版で、渡辺淳一の初めての新聞連載小説がスタートする。札幌の街を多彩に描いた名作『リラ冷えの街』である。当時の社告には「現代の科学万能時代における愛の運命を探る」と作家の意気込みが語られている。
文学館には「リラ冷えの街」の連載原稿が大切に保存されている。手書き文字の上に、新聞社の担当デスクが手を加えた赤字や担当印などが並んでいて、臨場感が伝わってくる。
この成功で新聞小説欄は渡辺淳一の話題作を生む最高の舞台となっていく。また、俳人の榛谷美枝子の使い始めた「リラ冷え」という言葉は渡辺作品を通じて北海道の美しい季語として知られることになった。
ちなみに渡辺淳一の命日の別称は「ひとひら忌」。道産子としては「リラ冷え忌」となることを願ったのだが、「ひとひらの雪」の甘美さにかなわなかったのが残念である。(2015/)04/30
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渡辺淳一「船山馨への弔辞」
渡辺淳一が札幌医大講師を辞して、作家としての独り立ちを目指して上京したのは一九六九年四月のことである。
激しい競争の世界を目撃し、不安にかられながらも隅田川を渡った下町の病院でパートタイム医師をしながら、創作に打ち込む姿は小説『何処へ』に詳しい。
上京した渡辺淳一を支えてくれたのは作家の有馬頼義。彼の主宰する若手作家を育てる「石の会」が緊張感を保つ場となった。
医師か作家か―と悩んでいた渡辺淳一を励ましたのも北海道出身の二人の作家、伊藤整と船山馨であった。
伊藤整は純文学一本で行こうとする渡辺淳一に中間小説雑誌であろうと与えられたチャンスを逃すな、本当に書きたいものは名が売れてからでも遅くはない、と助言した。伊藤整は読み物作家として大成する渡辺淳一の資質を見抜いてたとも言えよう。
船山馨は春子夫人とともに、ともすれば心弱くなる渡辺淳一を家庭に招き、励ました。この2人の夫婦像は乃木希典と妻静子を描いた伝記小説の傑作「静寂の声」を生み出すモチーフとなった。船山馨が亡くなった日、夫人も亡くなったが、医師であった渡辺淳一が懸命な蘇生を行ったという。
渡辺淳一は船山馨の葬儀で弔辞を読んだ。和紙に筆文字で記された弔辞が文学館に残されている。「北海道出身というだけで」「おしかけた」自分を励ましてくれた先輩への感謝の気持ちにあふれた内容である。(2015/05/07)
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渡辺淳一の「年賀状」
渡辺淳一はストーリーテラーとして多くの物語を紡ぎ出した。だが、その文学的出発において最も影響を受けたのは短歌であった。
中学から高校にかけての国語教師であった中山周三が作歌を勧めたからだ。中山は有力な短歌結社の「原始林」の中心人物だった。
中山は渡辺淳一の短歌について「耽美、感傷的なものは、あまり見られず、自我に目ざめていく少年の内面が、リアルに、端的に表出されていておもしろい」と評し、内面の興味が「やがて歌の上だけの表現では、飽き足らなくなり、より自在な小説の世界へ」進んだもの、と推測している。
「原始林」の渡辺淳一作品をいくつか紹介する。
・わら窓の雪小屋の夜は忘れがたし赤き焔に照らされてありし (一九四九年三月)
・いらいらと人と争ひてその奥の暗き果しの孤独のぞきぬ (四九年五月)
・西の西のナポリへ行きたいと急に思ひ胸躍らせて友に語れり (五〇年九月)
短詩型から散文に移った渡辺淳一であるが、毎年の年賀状には「苦心する」と言いながら戯れの俳句をしたためていた。
・新年や 年甲斐もなき 人になる (二〇〇三年)
・あやまちを またくり返す 初詣で (〇四年)
・元旦や まだ書くのかと 我にきき (〇七年)
・傘寿来て 愛の小説 書きこみぬ (一三年)
ちなみに、四月に亡くなった一四年は年賀状が間に合わなかったようで、寒中見舞いが最後の一句となった。
・新年や 風邪が治らず冬ごもり (2015/05/14)
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渡辺淳一「花埋み」原稿
渡辺淳一の「花埋み」は日本最初の女性医師の荻野吟子(一八五一~一九一三)に光を当てた、渡辺淳一のみならず現代日本の伝記小説の代表作である。
主人公・荻野吟子は最初の結婚で病気をうつされて実家に戻った後、さまざまな女性差別や難関を乗り越え、医師となる。しかし、それも束の間、伝道と開拓に燃える夫とともに、北海道・せたなに渡ってきて試練に立ち向かう。波瀾万丈の「女の一生」であった。
「利根川は関東一の大河である。
上信越の山並から流れ下ってきた雪解け水は、この北埼玉俵瀬にきて豊かな水面を見せていた。上流の岩を噛む激しさはもうここにはない。」
大きな構えによる利根川流域の風景描写から始まる文章は、主人公を襲った数々の試練を次第に浮かび上がらせ、時代と社会の壁に正面から向き合う姿を鮮やかに描き出していく。
渡辺淳一が吟子を知ったのは、一九六六年夏。札幌医大の医局宿直室の掃除をしていると、書棚から一枚の紙片が落ちてきた。それが「北海道医報」という小冊子。「日本で最初の女医来道す」と、吟子のことが書いてあった。筆者は当時の道医師会会長の松本剛太郎であった。
ほんの偶然が医師である作家の琴線に触れ、ある種の必然のようになっていくのがおもしろい。
国境の街・根室の漁業をめぐる暗部でもある「レポ船」問題を扱った小説『北方領海』でもそうであったが、渡辺淳一はジャーナリストも驚くような取材力をみせる。北海道開拓に入った夫の志方之善とともに歩む吟子の先駆者として苦悩に迫り、人間像を作り上げた。
渡辺淳一によって、吟子の偉大さが多くの人の知るところとなったのだ。文学の力は大きい。
(2015/05/21)
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渡辺淳一「私の北海道」原稿
渡辺淳一は生粋の道産子であるが、35歳で北海道を離れ、東京へ移った。
渡辺文学に詳しい評論家の郷原宏さんは「渡辺淳一は北の作家である。もっと正確にいえば、南方の陽光にあこがれながら、ついに北方の凛烈を愛さずにはいられなかった作家である」と指摘している。
そんな渡辺淳一の、北の大地に寄せる複相的な思いが綴られた原稿がある。
北海道電力発行の「フロンティア」九号(一九六九年十月)に寄せられた「私の北海道」である。
「正直にいうと、私は北海道がたまらなく好きで、吐き出したくなるほど嫌いである。愛憎が一塊となって混在している。(中略)満たされない夏のあとに来る哀れなまでの秋の短かさ、冷害、降り積もった雪の中の陰うつで不便な生活、雪の前後の道路の悪さ、広野を吹き抜ける地吹雪、その中で耐える時間、私の記憶には常にこうした生活の苦い裏面が重なっている」
渡辺淳一は通りすがりの観光客のために、アカシヤ並木や赤煉瓦庁舎を残せ、という意見に疑義を呈している。「土地の風物は第一主義的に、なによりもその地で生きる人のためにあるのである」と。
渡辺淳一は青年医師として道内各地の炭鉱病院で勤務した。同じ文章での中で「山には必ずズリ山と炭住長屋と黒く濁った川があった。そこに住む若者は、こんな田舎に住むのはもう嫌だといった」にもかかわらず、自分自身が通りすがりの珍しさでズリ山を美しいと賞めたことを後悔している、とも記している。
北海道がたまらなく好きなのに、どうしようもなく嫌い―というアンビバレントな感情。この葛藤こそ渡辺文学の基調であった。(2015/05/28)
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「リラ冷え」の榛谷美枝子
空知管内上砂川町生まれの作家、渡辺淳一(一九三三~二〇一四年)が直木賞受賞直前の70年7月に北海道新聞で連載を始めたのが『リラ冷えの街』である。リラとはライラックの別名だ。札幌を舞台にしたこの新聞小説をきっかけに渡辺淳一は一気にスター作家の道を駆け上がっていく。
リラ冷えとは六月に入っても寒さの戻る北海道の季語。「リラの花は、まだ底冷えのある初夏の暮れどきによく似合う」(渡辺淳一『北国通信』)のである。
この美しい季語を渡辺は北大の先生であった植物研究の辻井達一(一九三一~二〇一三)の小さな著作「ライラック」(HTBまめほん、一九七〇年)で知った。辻井は渡辺作品のモデルとなっている。辻井は「文学のなかのライラック」という章で俳句をいくつか紹介している。
リラ冷えや十字架の墓ひとゝころ
リラ冷えや睡眠剤はまだきいて
渡辺は特に睡眠剤の句が気に入ったという。いずれにしろ、北海道らしさとリリシズムのあふれた言葉に魅せられて、リラ冷えは出世作のタイトルとなった。小説は71年に単行本化されて大ヒットする。
そのリラ冷えの句を初めて詠んだ俳人は滝川市江部乙町出身の榛谷美枝子(はんがい・みえこ、一九一六~二〇一三)。榛谷は庁立札幌高女(現札幌北高)卒業後、「ホトトギス」などへ投句。北海道俳句協会役員などを務めたほか、はしばみ俳句会を主宰した。
第一句集の「雪礫」(一九六八年)の中にそれらの句は収められている。54年に
リラ咲くと聞き札幌へ途中下車
ビール飲む約束はあとリラを見に
で初めてリラを取り上げ、60年に
リラ冷えやすぐに甘えてこの仔犬
と、初めてリラ冷えという言葉が詠まれている。睡眠剤の句は62年。64年には
リラ冷えや美術講演パリのこと
を詠む。十字架は66年作。
その後、リラ冷えは多くの人に知られ、季語として認められた。
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