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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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東京めもりある    1996


                               <1996年秋執筆>
 谷口です。本誌「黎」とお別れすることになりました。少数ではあれ、注目してくださっていた読者の皆さん、16年間に渡りいろいろな形で励ましてくださった各方面の先輩諸氏の皆さんにお礼を申し上げます。
 さて、96年秋、2年半ぶりに東京から札幌へと戻りました。恒例となりました、「東京めもりある」と題したおしゃべりをしながら、現在の状況について、少しく棹差して展開してみたいと思います。

《バブルと終わりゆく昭和》

 私の東京暮らしは学生時代の一時期を除くと、2回になります。前回ですが、私は1984年(昭和59年)秋から1988年(昭和63年)春まで、3年半ほど東京に居りました。その時期というのは、日本の資本主義が異常な形で成熟を迎えておりました。
 たとえば東京のど真ん中・千代田区の一角に神田という、いかにも江戸っ子の心意気が伝えられていそうな地区があることはご存知だと思います。
 私はその当時、江戸関係の話題ものの取材で、神田をよく歩いたのですが、あそこは非常に街がいりくんでいるのですが、本当に狭い区域のあちこちに空き地ができて、早い話が「土地一升金一升」とでもいうべき状況が生まれていたわけです。
 バブルをよしとする人もいるわけですが、見栄えを含めやはり一種普通じゃないわけです。昨日までそこに住んでいた人が今日はどこへいったか分からない。昨日まで細々とはいえ開いていた飲食店が上屋ごと消えてしまう。そんなことが日常茶飯事だったわけです。しかし、それは人間の感性に反しているのですよ。
 さて資本主義の最も大きな特質の一つはスピードということだと思います。「速さは力」なわけで、良く言えばバブルは地域の古い関係を徹底的に解体し、効率のいい近代的な空間に変えようとしていたのかもしれません。
 しかし、私たちの社会はそうは簡単にはいかない。私たちを含めた個々の家族や小さな集団や個人は、完全なユニットから形成されているのではなく、多くの諸関係の総和として存在しているわけです。だから、単純にひとつのビル用の土地を確保したからといって、そこで、近代的な社会的空間を創出できるかというと、まったくダメなわけです。関係の隙間というのはバブル的開発手法では決して埋められない訳ですよね。
 バブルについて経済学的な批判ができるとは思いますが、私自身は経験的に、地域的な関係力学を無視した買い占め=開発行為はそれ自体無理だと思っておりました。結果的にはバブルはものの見事に夢物語として終わりました。いい夢を見た人もいたでしょうが、政府による金融引き締め、土地政策の変更のなかで破綻して、めぐりめぐって大半のバブル紳士たちは、最近の住専問題にみられるような借金地獄に泣き、まったく無責任な国家による後始末を余儀なくされています。
 私は前回、そうしたバブルの姿を徹底的に見させてもらった。日本の資本主義の反自然性を教えていただいた。それは冗談ではなく収穫だったと思います。私の住んでいた隅田川の近くでも、古い魚屋が店を閉めたと思ったら、後はビルに変わってしまい驚いたことがあります。そこからは人情的なものが消えました。さらには、隅田川の傍にあったアサヒビヤホールは、みっともないウンコビルに変わってしまいました。以前なら、気楽に下町のおやじさんがドアを開けられたのですが、今は四角四面の正装でもしていなければ、ちょっと入れないような、よく言えば威厳のようなもの漂っています。ただ、これは、基本的にダメなんだよというのが、私の実感です。なんとも教訓的な物言いになりますが、人間的自然を無視したものは社会的に復讐される−そういうことがバブルを経験することで言えるようになったと思いました。
 もうひとつ、私が経験したものは「終わりゆく昭和」の実体というものです。昭和天皇の腸の異常、手術から始まって下血、昏睡という
一連の流れを比較的近くで見せてもらいました。
 私は別にラディカルな天皇制反対の人間ではありません。所詮、天皇家というのは大陸から文化を持って日本にやってきた古代の渡来人の頭目であり、その習俗にはよくもあしくも日本社会のひとつの底流となった宗教的儀礼が含まれているだけだと思っています。ですから、天皇家は第三権力的な意匠をすべて剥ぎ取られた後は、どこかの神社の宮司にでもなって儀礼の民俗性を必要とする人たちに、それなりに伝えればいいと思っています。
 ただ、天皇の政治的利用というのは、好まない。私は現在の社会は高度な資本主義社会であり、昔のマルクス主義的な観点からすればブルジョア独裁が貫徹している、と思っています。そうした社会において本来天皇制は異物であるはずですよ。にもかかわらず、昭和天皇の容体悪化を機に、歌舞音曲を慎め、健康回復を願って記帳に励め−などの動きがでるに至って、こりゃ、なんだと思いました。私は天皇制自体に興味はないのですが、この動きはいつかどこかで、この国のダメさ加減を噴出させるだろうと思っていました。
 結局、昭和天皇は私が北海道に戻って1年足らずで亡くなりました。

2
《戦後五十年の負の遺産》

 それから、6年を札幌で過ごし、94年の春に、また東京に戻ってきました。バブルの後遺症が残るマチは何か間の抜けた感じがしました。東京はダメだな、と思いました。
 時代的には戦後50年というものが、ちょうど論じられていました。政治的には資本主義と疑似社会主義の国際対立の国内的な反映とでもいうべき55年体制というものが解体したわけでした。ただ、一方で、生産から消費に軸心を移した高度な資本主義社会というものが到来していたことは、よく分かっていたのでしたが、それに伴う社会の意識の領域が本当はどう変わったのか、分からないところがありました。
 95年になって、そこのところがよく見えました。いうまでもなく、一つは1月に起きた阪神大震災です。繁栄を謳歌していた日本の高度な社会というものが、あんなにも簡単に崩れてしまった。5千人を超す人が亡くなり、そのことを具体的にイメージすると大変きついものがあるのですが、しかし断固として言っておかなければならない。日本の戦後的な上げ底化された開発至上主義のツケが空襲のように襲ってきた。それに対して日本の都市はなんとも無防備でした。
 そして、その乱開発行為に対する自然の反抗が阪神大震災だとすれば、社会的な形で吹き出したのが、3月に首都・東京を襲ったオウム真理教集団によるとみられる地下鉄での無差別なサリンによるテロ行為です。11人の死者と5千人に及ぶ被害者数というのは普通ではありません。
 オウムとは何なのか、いまだに本当のところはよくわかりません。吉本隆明さんのように、宗教者・思想者としての麻原彰晃を評価する人がほんの少しながらいる一方で、麻原はいかさまのペテン師だというワイドショー的な見方が大衆レベルでは支配的でした。
 私はこの二つの問題を坂口安吾の「堕落論」を導きの糸として「五十年目の堕落論」という論文を書いています。つまり、この二つの事件を「戦争」と「天皇制」が《露出》してきたものととらえました。
 それに対して「戦後」の価値観がいかに対応するかを現在を評価するメルクマールとしたいと思いました。
 いかに「戦災」がすべてを破壊しつくそうと、人間が希望を失わなければ、必ず立ち直ることができる。法隆寺だって京都だって焼けて壊れてしまっても構わない。バラックの向こうに明日の光を見ることができるならば、日本の伝統なるものの最低綱領は失われることはない。坂口安吾が「日本文化私観」で述べたことはそういうことでした。そこには形あるものを崇拝する傾向を拒否して、人間の実存にこそ価値の源泉を見ようととする安吾の革命的なパラダイムチェンジが存在していたと思います。
 阪神大震災は悲惨な体験だったと思います。しかし、馬鹿な商売人のスタンドプレーを除けば、次々と広まったボランティアの活動を含め、この国の社会意識も捨てたものではないな、と思わせました。
 バラックの仮設住宅で多くの人たちが孤独に死んでいったことや、一種の精神的な困難に見舞われた人たちが大変多かったことはあります。それでも、それを乗り越えて、さらに多くの人たちが新しい生活を歩みだしていった。それは評価すべきことだと私は思いました。
 他方、戦後50年もたった現代にオウム真理教的なものが復活してきたのはなんなんだ、と感じました。
 戦後世代であり、いわば全共闘末席組である私には、オウム集団は最先端の科学技術をさまざまな形で取り入れてはいるけれど、明らかに擬似家父長制的に構成された倫理主義的集団であり、まさに真制民主を指標とした戦後的《私的》価値の優先という世界史的戦いの地平に反するものでありました。吉本隆明さんの言葉(これは御本人はマルクスからの展開であるとしているのですが)で言えば、オウム真理教の集団編成は「アジア的」なデスポチズムのカリカチュアでしかない。
 わかりやすく言えば、北朝鮮の金日成・金正日体制=貧困と圧制のスターリニズムのミニチュア版でしかない。倫理がまかり通るところに、自由と自立は必ず組織統制の前に敗北していくのは明らかです。
 ですから大衆レベルではオウム的なものは、やはり否定された。もちろん、オウム的なものは本当は私たちの身近に様々な形で存在する「意識としてのアジア」という歪んだ天皇制のエピゴーネンであり、その典型です。坂口安吾的に言えば「堕ちきれなかった」人間が復活させる「亡霊」こそが天皇制であります。オウム批判とは実は私たちの中にある「内なる天皇制」との戦いであった、と私は思っています。
 それに対してやはりオウム的に麻原彰晃に絶対化されていくものは、おかしいと大衆が感じたからこそ、オウム批判の動きは警察やマスコミの思惑を超えて、大衆の実感レベルで徹底化されたように見えました。そのことをよいことに、公安警察が破壊活動防止法をオウム真理教に団体適用することとは、また別の問題です。

3
《宮沢賢治ブームの陥穽》

 オウム的なものを大衆は<私的>価値優先の生活実感から徹底的に批判した。それがあったからこそ、マスコミはオウム批判をワイドショーで好き放題にやれた、と言ってもいいと思います。
 この間接的に言えば、天皇制との戦い、スターリニズムとの戦いと、その勝利というのは戦後的価値の到達点として評価すべきものでした。
 しかし、坂口安吾ではありませんが、「堕落」しきれなかった日本の戦後が手放しで賛美できるはずがありません。
 たとえば、この95年から96年にかけて、出版界や広告界、多くのメディアは「宮沢賢治ブーム」を演出してきました。賢治の生誕百年を翼賛して、いかに宮沢賢治がすぐれた文学者であり思想家であり実践家であったかを、繰り返し繰り返し外部注入しています。
 私は「ありゃありゃ」と思います。オウム真理教集団をあれほど指弾したメディアが、どうして宮沢賢治を手放しでほめちぎることができるか、不思議でならないからです。
 独断と偏見の塊の谷口ですから、ここは一気に言ってしまいましょう。「宮沢賢治? ありゃ一種のオウムだよ」と。
 たとえば、宮沢賢治の詩でもっとも人口に膾炙しているものと言えば「雨ニモマケズ」でしょう。あれは捨身の詩ですよね。「欲はなく」「決していからない」人間なんて、どうみても普通じゃないですよ。
 私は刺されて死んでしまったオウムの村井秀夫元幹部の坊主頭を見ていると、賢治をいつも思い出してしまうのですよ。賢治はこの「雨ニモマケズ」の詩のすぐ前後で、「下賤の廃躯を法華経に捧げ奉りて」とか「当知是処 即是道場 諸仏於此 得三菩提」とか書いています。
病気の賢治は呪言を唱えたり、いわば修行するぞ、修行するぞ、てな危ないところにいるわけです。村井さんの追悼の本に村井さんの「味覚の歌」とかいうテープが収録されていますが、あれを聞いていると宗教者は音楽が好きなんだな、賢治もそうだったのかなあ、と連想しますよ。
 「雨ニモマケズ」はいい詩ですが、そういう全体性の中で考えないと、本質を見失う。そういうことです。
 もうひとつ言っておきましょうか。あのオウムの宣伝塔の「おしゃべり上祐」という人が性的スキャンダルに対して、自分はずーっと禁欲を守っていると言って失笑を買ったことがありました。
 実は宮沢賢治にも「童貞伝説」というのがありますよね。あれはどうなんでしょう。
 賢治の近くにいた藤原嘉藤治という人が「彼の独身生活は正真正銘の童貞を護りつづけた」と書いています。さらに賢治の言葉として「性欲の乱費は君自殺だよ、いい仕事は出来ないよ。瞳だけでいいじゃないか」と諭してくれたと書いています。
 あちゃーですね。性欲旺盛で、満足な詩も書けず、ろくな仕事もしてない人は、返す言葉がないでしょう。すぐ禁欲生活に入って、本来の才能を開発してください。
 ははは、これは暴論ですね。詩人の荒川洋治さんも「海燕」かなにかで、宮沢賢治童貞説に立って、賢治ファンをからかってましたが、私の聞くところでは違うんですよ。賢治は東京に出ると、吉原に寄っていたらしい、と我が友人にして賢治研究の異端者・Y君は指摘しています。
 確かに賢治の東京の詩には隅田川をうたったものもあります。隅田川から吉原まではあと少しですね。賢治は遊郭通いをノートに書いていたらしいのですが、そこの部分は秘匿されている、というのがY君の指摘です。
 誤解のないように言っておきます。私は宮沢賢治が好きなのですね。私は吉本隆明さんの信奉者でしたから、吉本隆明さんの詩の彼方には、いつも宮沢賢治を感じていました。ですから、間接的に多くの影響を受けているのですよ。だからこそ、きちんと押さえるところを押さえ、批判的にみなけりゃいけない部分を忘れて、ただ賛美翼賛しちゃ、まずい。


《戦後社会思想の到達点》

 宮沢賢治の法華経のルーツは「国柱会」ですね。これは明治から大正を代表する日蓮主義者の田中智学という人が旗振りしたものです。国柱会も田中智学を知らなくても、いわゆる「国体」とか「八紘一宇」は知ってますね。あれを発案したのが田中智学です。
 賢治はそうした国柱会から影響を受けていたのです。詩も書いています。
  もちろん、田中智学から、もっと大きな影響を受けていた人もいる。いうまでもなく満州国のコーディネーターの石原莞爾は、その代表です。石原といえば、「世界最終戦争」の提唱者です。
 あれ、これって聞いたことあるでしょ。オウムの麻原のハルマゲドンですね。そのために、武装しよう、ってのがオウム王国。チンケですけど。
 石原は満州国作ってしまった。オウムと石原と賢治。どこかインターナショナルでナショナルで、空想的で、似ているです。
 賢治は早く死にましたから、中国侵略に加担しなくて済みましたが、長生きしていたら非常に危ないところに走っていた気持ちがします。
本当に己を捨てているんですから、イケイケになる。
 戦後五十年で、オウムを批判し、一方で宮沢賢治を翼賛してしまう思想の準位を私は疑います。この二つはメダルの裏表なのです。

 オウムの中にはまだまだ解明しなくちゃいけない思想的問題がある。それを全否定した。賢治には押さえておかなければいけない思想的問題がある。それを全肯定している。
 私はそこが怖いのです。そのことをすうーっと横滑りしては、たぶんオウム的なものは、再び強大な悪霊となって復活してきます。そうしたら、本当に現代の科学技術をもってすれば、ハルマゲドンの時は来てしまうのです。
 鷲田小弥太さんが北海道新聞の「今を読む」で私論からみれば、ピントがずれたことを書いています。
 鷲田さんによれば、オウム事件などを「日本の戦後社会の五十年が生み出した『負』の遺産の噴出だ」という言われ方は間違っている。「一連の『事件』は、新しい現実に対する適応不全から生じているもの」である、というのです。
 そういう側面があることは確かでしょうが、私はやはり違うと思うのです。
 オウム的なものの現れ方は、戦後社会が天皇制的な意識構造に対して、きちんと始末を付けてこなかったツケが噴き出している。
 この問題を整理しなければ、新しい時代にも何度でも亡霊は蘇ってきます。生活思想のレベルで、おかしいものはおかしいと言えるようにならなければ、ダメです。
 その関係性みたいなものがあいまいですから、オウムと宮沢賢治を全く無関係に扱ってしまうことにつながっています。

 政治的なものが衰弱していき、その代わりに本当は社会的レベルでの自立みたいなものが、様々な形で形づくられていくのが、現在のもっとも大切な課題だと思います。
 選挙に私などはあまり関心はないのですが、そうした地域性みたいなものを相対的に押し上げていく運動にポイントを置いて、表面的な意匠を剥がしてゆければ−と思います。

         (文芸同人誌「詩と創作 黎」第47号、1988年春季号所収))

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