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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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勝手にweb書評REVIE

勝手にweb書評8−2   11〜19

★★☆ 
<11>佐藤優『国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて』(新潮社)
 力作と評判の本をようやく読むことができた。筆者は鈴木宗男元衆議院議員(今回の総選挙で「新党大地」を結成し、比例代表の北海道ブロックで当選、衆院議員復帰を果たした)の「盟友」として外務省で権勢を振るったと言われる情報職員である。本書はその筆者が「国策捜査」により、犯罪者に仕立てられていく状況を冷静な分析でつづったものだ。同志社大学で神学を学び、スパイの本場ロシアで鍛えただけあって、その諜報(ちょうほう)能力は超一流だとよく分かる。
 結論から言えば、本書は目的のために少々の逸脱はあろうとも、愛国者として北方領土問題解決のために尽力してきた鈴木氏や佐藤氏は犯罪者ではないという弁明の書であるということだろう。<鈴木宗男氏は「公平配分モデル」から「傾斜配分モデル」へ、「国際協調的愛国主義」から「排外主義的ナショナリズム」へという国家路線転換を促進するための格好の標的となった>との指摘はその別の表現だ。すなわち「時代のけじめ」としての「国策捜査」が彼らを裁いたということの強調につながるわけである。
 抜群の記憶力と知識、分析力を持つ佐藤氏の展開は多くのところで説得力を持ち、正義の味方である東京地検や外務省、官邸の思惑を批判的に浮かび浮かび上がらせてくれている。しかしながら、私たちはこの文章を読みながら、この人は事実をすべて明らかにしていないという不満が残る。少なくとも、政治家の為していることの多くがいかに裏表があるかぐらいは側に居れば子供にだって分かっていることだ。選挙区に行けば、そんなことは誰でも知っている。にもかかわらず、自分たちの大義と方便をのみ強調する時、その目が曇っていると言わざるを得ないのだ。特権的立場に依拠した自己正当化ではなく、さらに自己分析をしなければならないはずだ。「鈴木氏が要求したのはクロノロジー(=メモ)なのに、それに過剰反応して詫び状をもってくる官僚はよくいる」とは、なぜそうなるのかを問わずに官僚が悪いかのような絵図を書きすぎている。
 とはいえ、「日本人の排外主義的ナショナリズムが急速に強まった」という現状分析には聞くところが大だ。この国の中にわき起こっている、隣国アジアへの苛立ちのような動きを見るにつけ、「国家の罠」は深い。

<「北海道立文学館」(札幌市中央区中島公園1の4)を歩く>
 北海道文学の殿堂である。9月10日から11月13日までは「原田康子の北海道−小説『挽歌』から50年」が開かれている。開館10周年記念の特別企画展という。少し小ぢんまりだが、吉川英治文学賞を得た最新作の「海霧」まで、北海道を代表するこの作家の歩みが一目で分かる。
 中島公園は趣きある都市公園である。散歩道あり池あり伝統的建築物あり音楽堂あり。そこに堂々たる偉容を誇る同館はある。中に入ると、堅牢(けんろう)な書庫と展示室が目立つ。特に常設展示の「北海道文学の流れ」はアイヌ民族の文学から、石川啄木や有島武郎らの明治・大正期の先駆的文学者、さらに伊藤整、小林多喜二から原田康子、三浦綾子、渡辺淳一ら昭和をにぎわせた作家らの仕事が紹介されており、圧倒される。
 こうした資料の保存・展示は個人の力ではできない。収益性の低いことを思うと、企業にも難しいだろう。アメリカのネオコンと我が国の新自由主義の跳梁(ちょうりょう)に象徴されるように、「官から民へ」というのが現代政府のスローガンのようである。だが、その国と地方の文化を守るのは一義的には、政府であり地方自治体であり、いわゆる「官」の責任であろう。
 「これまでの人間の歴史とは書かれた歴史である」というようなことを言ったのは、かのエンゲルスだったかどうか。この整然と並んだ文学展示を見て、少しだけ心が痛むのはなぜか。多くの作家はこの豪勢な考古学館とは対照的な貧困の陋巷に客死同然で人生を終わったからか。多喜二でも小熊秀雄でも誰でもいいのだが、そうした生活空間・場をどこかに保存できると、先達の苦労と努力が体感できるような気がするのだ。

<12>山野車輪『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)
 「日本人の排外主義的ナショナリズムが急速に強まった」とは佐藤優氏の指摘だが、現在、世は韓流ブームだ。しかし、これを快く思わない人たちが確かにいるようだ。韓国や朝鮮(それに中国)が大嫌いな人たちである。その人たちは「冬のソナタは韓国に対する良いイメージを浸透させる道具にされてしまった」と感じているらしい。そうしたイメージ操作を見破れというのが、漫画の体裁を取った本書の根底にある思想だ。
 なにしろ各章のサブタイトルを見ても「韓国人に汚されたW杯サッカーの歴史」「永遠に要求される金と土下座」「日本を内側から蝕む反日マスコミのプロパガンダ」「朝鮮の近代化に努めた日帝36年の功罪」といった具合に刺激的な言葉が並ぶ。要するに「韓国にはもう謝罪も補償も必要ないんだ」とか「従軍慰安婦の強制連行なんてない」「(一部のマスコミは)日本を貶めるためには事実を歪めることさえやりかねない」とアジテーションを繰り返すという具合だ。
 作者の山野氏の立場からすると、日本の朝鮮併合はなんの問題もない。韓国はうそばっかり言っているとなる。しかも、そこには「火病」という韓国人に特有の精神的疾患があるのだそうだ。この作者たちはディベート好きらしく、主人公がいろいろなテーマを論破していくという展開だ。
 この書の持つ特異な毒のために、マスコミ内部には君子危うきに近寄らずではないが、本書をタブー視して触れまいとする傾向もあるが、私が読んだ限り決して「トンデモ本」でも禁忌本でもない。一定の事実と判断に基づいて論じられている本である。出版の自由や表現の自由のある我が国では、言葉狩りや表現の封印をするのではなく、事実に基づいて、これをきちんと批評していくのが筋だと思う。
 その上での感想である。
 私の母は北海道の重工業拠点都市で育ち、戦時中に多数の死者と、朝鮮人の労働者が非人間的な扱いをされていたのを見ている。別に進歩的でもなんでもない庶民であるが、その光景は悲惨だったそうだ。強制には一見、恣意のように思えても「関係の絶対性」の中で避けられないものもある。売春が恣意のように見えても、集団的に現象していれば、ある種の心的強制の中にあるように。朝鮮人の問題は単なる労働条件のレベルの問題ではなく、やはり民族差別の問題であると認識すべきだと思う。
 日本の植民地支配とアジア侵略をある種の必然性だったり、産業育成や教育を含め、良いことをやったのだ正当化する立場では、多大な傷を負った近隣諸国からの不信への回答にはならないだろう。自分は正しい、相手はうそをつく、というような偏狭なナショナリズムからは建設的な関係は決して生まれないだろう。「嫌韓」を声高に言うのはためにする挑発となる。韓国にダメなところがあれば、それを端的に指摘すればいいだけのはずだろうと思う。
★★★
<13>島本理生『ナラタージュ』(角川書店)
 工藤泉は大学2年生。ある日、高校演劇部の葉山先生から電話がかかってくる。後輩の卒業公演のための舞台を手伝ってくれないかという誘いだった。泉には忘れられない彼だったので、心が揺れるのを感じた。−そうして昔の仲間たち、後輩たち、新しい仲間、そして葉山先生との演劇を通じた交流が始まる。葛藤を抱えた彼との恋愛。それはいつまでも心に残るひりひりとした20歳の思い出となる。
 なにしろ「ホント、すごい」(北上次郎)「魂を焼き尽くすほどの恋」(小川洋子)と本読みの目利きが絶賛するのだから、今さら論評するのもあほらしい。で、「すごい」かというと、スゴイ。若い女性作家が軽みに走らず、しっかりとした情景描写で、いささか古風な恋愛を描ききった才能には驚嘆させられる。登場人物はなんら特異ではないし、やることも凡庸の域を出ていない。だが、確かな表現力がそれらに陰影を持たせている。
 さて、星3つです。登場人物たちは、みんな「弱さ」感応機(センサー)を持っているらしく、自分の限界・性格にとても自覚的だ。なんとなく分かってしまう。だから、突っ込みが弱い。現代っ子らしいと言えばその通りだが、もっとドロドロ対立してこそ人間なんだと思う。これは、「回想」であるが故に、静かなリリシズムに流れるのかもしれないが、地べた這いずり回り系の私には物足りなさが残った。
 島本理生さんと言えば、高校時代に「リトル・バイ・リトル」で第128回芥川賞候補になっている。文化記者として選考会に出ていた時のことを思い出した。あの時は講談社の近くに待機していたはずで、友好紙の担当記者が張り付いていたものだ。結局は大道珠貴の超脱力小説「しょっぱいドライブ」が受賞したが、みんな高校生に期待していたから、選考委員が話題先行を嫌がっていたことも落選の一因かと思ったものだ。芥川賞は金原ひとみ、綿矢りさに先を越されたが、着実に実力をつけていたことを知った。
 本の表紙裏の注書きによれば、「ナラタージュ」とは映画などで、主人公が回想の形で、過去の出来事を物語ることだそうで、日本語に訳せば「回想」とか「思い出語り」というところか。
★★☆
<14>坪内祐三『一九七二』(文藝春秋)
 サブタイトルに〈「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」〉とある。つまり、歴史意識にある時期から変化、断絶が起きた。それが1972年だ、というのが坪内氏の指摘であり、その証明が本書のテーマである。1964年を皮切りにした文化変動は1968年をピークとする。一方で、古い感受性も残っている中で葛藤(かっとう)が続く。その完了が1972年であり、その年がひとつの時代の「はじまりのおわり」であり、「おわりのはじまり」であると言うのだ。
 細かい分析はともかく、1972年にさまざまな事件が起こっていることも事実だ。坪内氏の「昭和2万日の全記録」の引用を孫引きする。
 「木枯し紋次郎」放映開始。元日本陸軍伍長横井庄一グアム島で収容される。日活ロマンポルノ摘発。冬季オリンピック札幌大会開幕。連合赤軍浅間山荘に立てこもる。三菱銀行キャッシュカードをスタート。高松塚古墳彩色壁画発見。「デン助劇場」最終回。「子連れ狼」映画化。川端康成ガス自殺。沖縄返還。佐藤首相引退。田中角栄「日本列島改造論」を発表。「ぴあ」創刊。日中国交回復。初心者マーク登場。仮面ライダーカードが人気に。カンカンとランランが羽田空港に到着。R・ストーンズ初来日チケット前売り。海外旅行者百万人突破。
 僕の印象に残るのは、一つは横井庄一さんのグアム島からの帰還であり、連合赤軍のあさま山荘事件である。この時期に「戦争が露出してきた」と言ったのは吉本隆明だったろうか。僕らは公共の論理よりも個の生き方こそが大事と考えていた。それが親がしゃしゃり出て頭を下げ、一方で大義こそすべてに時代が戻って行った。時代が逆流するような気がしていた。そして、沖縄返還。それを僕らは「第3次琉球処分」と呼んで返還協定に反対していたことを思い出す。うまく言えないが、これらは他人事ではなく、どこかで当事者として振る舞っていたような記憶がある。
 僕らの世代の多くが感じていた時代の逆流は、実は新しい価値観の時代への転換であった。反省すればそのことがうまく掴めていなかった。吉本隆明風に言えば、ミネラルウオーターをすら商品とする高度資本主義・高度消費社会のとば口に立っていることを全く見抜けなかった。その転換点を思い起こすことはなかなかしんどい。坪内氏が指摘するように、団塊の世代は「連合赤軍」にこだわりながら、それをうまくとらえ返せないままで来ているように。この「1972年転換」には鋭い指摘であるが、個々の分析がどうかと言えば、当事者としては、「それは違うよ」という部分も少なくない。
 坪内氏とはひょんなことから銀座の飲み屋で会ったことがある。殴られたかなんだったか忘れたが、何かの事故で疲れていた。お互いに酔っていたが、僕らの世代では学生運動が結構盛んだったことを話すと、「そうなんでしょうね」と、しょうがないという感じで答えていた。そのころ「連合赤軍」にこだわった本書を書いていたのだと思うと、その気持ちはわかる気がするのであるが。

<15>林信吾、葛岡智恭『昔、革命的だったお父さんたちへ』(平凡社新書)
 サブタイトルに〈「団塊世代」の登場と終焉〉とある。帯にも「年金持ち逃げと言われますか? それとも、有終の美を飾りますか?」とあるから、まもなく仕事の現場からリタイアする「おじさん」たちに贈る愛のムチというところか。それにしても、よくこんな本が一冊になったもんだ、との感慨のほうが深い。
 本書によれば、団塊世代とは「1946年から48年にかけて生まれ、今まさに60代になる寸前、すなわちサラリーマンならば定年を迎えようとしている世代である。その数、およそ800万人を言われている」と定義づけられている。その上で、「1941年生まれまでをこの世代にカウントすると、実に1045万人、わが国の総人口の1割にも達する」とあるから、51年生まれの谷口も、この世代の尻尾にくっついているようで、人事ではない。
 「父よ、あなたは『革命的』だった」「団塊世代、かく戦えり」「サブカルチャーにはじまり、終わった世代」「亡国の世代、やり逃げの世代」という各章立てを見ても、筆者らの姿勢は明確だ。団塊の世代の60年を上目づかいで見ながら、「あんたら結局、文句を垂れただけで責任あることを何もやっていないでしょ」と言いたいのだ。しかも、基本的には新左翼運動全史とサブカルチャー全史が紹介されているのだから、こんな本はちょっとないし、普通は企画として通用しないだろう。明らかに団塊世代の1000人に1人でも買ってくれれば儲けものという狙いがわかる。
 昔、革命的だったお父さんたちへ、本書は言う。
「必要なのは、次世代のために『連帯を求めて孤立を恐れず』もう一度立ち上がる気構えだけだ。下の世代は、必ずや拍手を送り、後に続くだろう。/あなたたちは、あしたのジョーなのだ」
 久しぶりにこんなに空疎なアジテーションを聞かされるお父さんたちも、口あんぐりだろう。パロディーでここまでの本をつくる執念に感動する。
 それにしても団塊の世代、自業自得とはいえ評判悪いぞ! 私もその末席に連なっているのだが、伝わってくるのはそういう情けないイメージだけである。
★★★★
<16>網野善彦『日本の歴史をよみなおす』(ちくま学芸文庫)
 世の中にはいろいろな本があるが、「目から鱗が落ちる」本がこれである。
 日本歴史学はなんだかんだ農本主義的な生産力理論に基づいてきた。あるいは定住・農耕の民が社会の基本を形づくってきたというのが、ある意味で一貫した歴史認識の根底にあった。それはそうだろうが、「百姓」と言った時、土地を持たない「水呑」に分類されている層にこそ、非定住型の職能・交易の民があったと喝破した。それはまた被差別・遊行の民から貴種・天皇一族との共通性を探っていくことでもあった。
 いわゆる網野史学はスリリングだ。
 「(「日本」という国号は)7世紀の後半、律令体制の確立した天武・持統のころ、天皇という称号といわばセットになって定まったと考えられています。これも大変大事な点で、このときより前には『日本』も『日本人』も実在していないことをはっきりさせておく必要があります。その意味で縄文人、弥生人はもちろんのこと、聖徳太子も『日本人』ではないのです」
 これは皇国史観など全く寄せつけない鋭利な分析である。さらに、畿内が日本の主対象であって、「東夷」と言われるように東日本(関東から北海道まで)、さらには沖縄、南九州は日本であったかどうかとも指摘する。また、文化の流れも朝鮮半島、中国大陸から技術が入ってきたという通説よりも、北東アジア、サハリン、北海道経由の文化流入路にも注目するのだ。稲作がすべてという史観も見直されなければならないとも言う。
 1928年生まれの網野善彦先生は2004年に亡くなった。私は網野先生に一度お会いするのが夢であった。思えば、先生に対談依頼の電話連絡をさせてもらったことが一度ある。いろいろなメモを総合すると、2001年11月7日のことだ。私が「21世紀の今こそ日本を多角的に見直したいので先生に対談をお願いします」と話したのに対して、先生はかすれた声ながらも関心を示して前向きにお話しくださったが、「僕はまだ肺ガンの予後が思わしくない。今回は辞退したい」と答えられた。ただ、「元気になったら話しますよ」とも言ってくれた。先生による対談はついに実現しなかったが、先生の心意気は著作の中に残されている。
★★
<17>村上春樹『東京奇譚集』(新潮社)
 本を読むことは、自らを知ることである。想像力を刺激されながら、言語空間をたどっていく。その果てに見えるのは言語の紡ぎ出す美であると同時に、自分のいる場所である。その往復感が快楽なのだ。そう考えると、村上春樹の天才ぶりがわかる。
 本作は「偶然の旅人」をはじめとした5作からなる短編集。「レキシントンの幽霊」ではないが、ありそうであり得ない、あり得ないようで実はあるという不思議な物語を集めたという趣向である。虫の知らせのように10年以上も口を聞いていなかった姉の変化に遭遇する弟、死んだはずの息子が片足のサーファーとして目撃されているのを知る母、現実の世界から消えてまた戻ってくる会社員の話などが展開されている。
 だが、奇譚集をよく読むと推理小説のように、作品は超常的な現象を排除していることがわかる。つまり、それらはあり得ない話ではなく、あっても不思議でない話ばかりなのだ。どんなことにも理由があるということだ。
 さて、「日々移動する腎臓のかたちをした石」で淳平クンは「本当に意味を持つ」2人目の女性に出会う。ストライク・ツーだ。その上で、「大事なのは数じゃない」「大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなんだ」と淳平クンは言う。とはいえ最後の女性登場も待たれるわけだ。
 春樹が好きか嫌いかというと、実は僕は未だに彼を好きになれない。こんなに小説がうまいのに。なぜだろう?
★★☆☆
<18>歌川令三『新聞がなくなる日』(草思社)
 筆者は元毎日新聞編集局長。中曽根康弘氏の「世界平和研究所」の設立に加わり、首席研究員を務めた。現在は東京財団(日下公人会長)の特別研究員だそうだ。
 本書は「『新聞はなくなってほしくない』と思っている人間が書いたジャーナリズム論」だそうだが、筆者の軸足は既に、「無常な歴史の運動法則のもたらす結末」(盛者必衰の理)へと移っており、結局は新聞に対しては厳しい結論となっている。
 歌川氏によれば
1・201X年、日本の旧いビジネスモデルは死滅し、新しいビジネスモデルへと移行する。米国に比べて10年、韓国に比べて7年、「紙」から「電子」へと経営戦略の軸足を移すタイミングが遅れたことになる。
2・2030年には「紙」新聞は死滅する。「通信」と「放送」の融合が完結し、大型の画面がテレビとパソコンの双方向通信の機能を兼ねているだろう。
 という。
 「通信」と「放送」の融合という言葉で思い出すのは、ニッポン放送株買収騒動の際のホリエモンさんのキャッチフレーズであったような。つまりは、そういうことか。
 本書を貫くのはインターネットやブログなどと言ったニューメディア賛美の論である。新聞現場を離れてから久しいせいか、論はいささかお気楽な印象がある。新聞ジャーナリズムの終焉論は雑誌や書籍という活字メディアの終末にも呼応しているはずだ。自ら「マクルーハンの亡霊」が語りだすあたりに筆者の立場がうかがえる。
 多メディア社会の中で、新聞は相対的に比重が小さくなるのは確かだ。私のこの原稿もウェブで公開しているように。だが、論を急いではなるまい。速報性については既にテレビの登場で遅れを確認し、それとは違う意味での手厚く詳細な報道を目指してきた。新聞という「紙」のメディアの可能性は依然として私たちの前に残されている。
★☆
<19>大西巨人『縮図・インコ道理教』(太田出版)
 思想的文学者が描いた「オウム真理教」事件の本質探求。この巨人は壮大な哲学的対話を経て、凡庸な結論に至る。当たり前にことをここまで大仰に言わなければならないのかと思うと、いささか肩が凝る。さて結論は次の言葉のとおりである。
《かくて、「宗教団体インコ道理教は、『皇国』日本の縮図である。」という命題と、「宗教団体インコ道理教にたいする国家権力の出方を、人が、〈近親憎悪〉なる言葉で理会する。」という命題とは、いかにも彼此照応する。》
 簡単に言うと、オウムは天皇を頂点に置いた日本国の縮図(縮小再生産)であり、国家権力との関係は近親憎悪的であるというものだ。なーんだ、そういうことかと言っても仕方がないのであるが。
 大西巨人は書割をつくり、芝居がかった展開で、その結論に至る。しかし、途中で繰り出される樋口一葉やらマルクスやら、その他もろもろの議論はいかにも衒学的でまったくスリリングではない。テロリズム論や平和論にしても、なんでこれほど遠回りをしなければならないのか、気の早い私は疲れてしまう。内ゲバ論にしても、切れば血が出るような現実にはまったく届いていないように思う。
 もっともそれが大西巨人だと言えば言えなくもないのだが。期待が大きかっただけに、いささか肩透かしを食らった感じだ。哲学的文学の状況に対する解離性を示していると言ったら言い過ぎか。それはそうと「神聖喜劇」シナリオ版。早く読まねば。

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