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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています
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シン・たかお=うどイズム β
Private House of Hokkaido Literature & Critic
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勝手にwebいまさら探検隊
column
勝手にweb「つぶやき」と「いまさら探検隊」1 2005〜2006
ブログにあれやこれや書いていた時期がある。2005年から1年弱、読書と映画コラムを書いていたのだが、併せてカメラを片手にあちこちを廻る「いまsら探検隊」というルポもどきにも挑戦している。まくらには「つぶやき」エッセーも入れた。そんなわけで、200年代中葉、私は一種のブロガーだったのだとわかる。そうした原稿を採録する。呆れるほど書くことに淫している。
★★★
<こんにちは 札幌>
2005年7月1日付で旭川から札幌の部長になりました谷口孝男と言います。よろしくお願いします。趣味は読書と雑文書き。それから映画も少し。これからは読書日記や映画日記も書いていくつもりです。
ホームページで文章を書くのは、旭川時代からです。
さて、旭川から札幌に来て、一番に感じたのは「人酔い」です。繁華街の人の多さに圧倒されました。人がいるわいるわ。どうしてこんなに、いっぱいなの?
旭川は人口36万人、北海道第2の都市です。えっへん。JR旭川駅前から広がる買物公園には週末多くの人が集まります。でも、そのにぎわいすら、札幌のマチを歩いていると、寂しいものに思われます。なにしろ狸小路や駅前通り、大通公園やススキノには人が溢れています。このアモルファスなエネルギーをどう捉えたらいいのか、と思うとめまいを感じます。その一方で、武者震いも感じました。
2年半前までは東京にいたのですから、都市のにぎわいという点では札幌の比ではないはずです。それが圧倒されると感じるのは、私が身近な読者と接する旭川というマチにすっかりなじんでいた結果かもしれません。新聞記者という仕事の目線で物事を見ていると、関心も生き方も多種多様な人々に同じように記事を読んでもらう時の価値軸をどう考えるか、ということは本当に難しいようです。でも毎日の紙面で、さまざまに挑戦していきたいと思っています。
36年前の夏、友人と2人で、夏期講習で札幌に出てきて、大通公園でトウキビを食べながら、これからは札幌で暮らすんだな、と話していたことを思い出します。今は札幌が古里です。膨張する札幌には36年前の僕たちのように、地方から出てきた多くの人々が新しい市民になっていることでしょう。そのことに戸惑っている昔ながらの札幌っ子もいるかもしれません。多様な人々で構成される都市の現実と生活圏からの発想を大切に、このマチを少しでも暮らしよくしていくためのヒントを探していけたらと思います。みなさんのアイデアを拝借もします。よろしくお願いします。
【いまさら探検隊】★★★
<1>反実用!「ベンソンの水飲み」=大通公園西2丁目
焼けつくような熱さ、水が飲みたい。あった、と思って近づくと、がっかりさせられるのがこれだ。実用的な水飲みのはずが、ここではモニュメント!だそうだ。姉妹都市ポートランド市からの贈り物。来歴を見ると、サイモン・ベンソンさんがのどを渇かせている少女のために作ったもので、同市には今も20個所にあるそうだ。おや? 少女が水を欲していたのが1900年ころで、出来たのは1912年とな? そんなに時間がかかっていたら少女は死んじゃうじゃないか! 今だって役立たずだし。もっと水を…。
(2005.08.05)
<核兵器廃絶の道は遠いけれど>
広島原爆の日が終わった。戦争はなべて非人間的であるが、軍国日本を痛めつけ終戦を早め米軍の犠牲者を少なくさせるためとはいえ、戦闘員でもない一般人民を大量虐殺する原子爆弾の反人間性はいくら糾弾しても糾弾しきれない。本当に悪魔の所業だ。しかし、問題はそうした非人道兵器がいまなお大量に世界に存在し、さらに多くの国に拡散していることだ。いまなお、なんの理由も知らされず、多くの人々が無差別な戦争とテロにより血を流し死んでいる。
核兵器反対を言うことが何か政治的立場を表明しているかのように思われるとしたら、とんでもないことである。だれもがどこででも核兵器に対してはノーと言い続けねばならない。核兵器が人道的に使われることなどあり得ないのだから。
先の大戦で日本人は数百万人の犠牲を出した。そのことは重い。私たちの身近にも多くの死者がいたものだ。その人たちを思うと、彼らの無念の分もしっかり生きねばならないと感じる。人間は孤独なようで、どこかでつながって生きている。
同じようにアジア諸国の多くの犠牲者のことを思う。日本軍の暴虐によって死んだ多くの無辜(むこ)のアジア諸国の人々に、私たちは二度と戦争を起こさないこと、武力によってアジアと対峙することはあり得ないこと、犠牲者と家族の保障救済に全力を尽くすことを誓わねばならないと思う。
近年、わが国の内部には暗いナショナリズムが頭をもたげている。教科書問題をめぐるアジア諸国民の反応に冷笑を浴びせる傾向はその1つの典型である。現在のアジア諸国の一部の政治傾向がわが国から見て民主的でないからといって、それを理由に過去の日本の為した暴虐を相殺できると考えてはならないと思う。
戦後60年。その時は長いか短いか。多くの尊い犠牲の上の平和を私たちは大切にしなければならないと思う。(あの忌まわしい60回目の長崎原爆の日を前に)
【いまさら探検隊】★
<2>トウキビ広告塔?「石川啄木像と歌碑」=大通公園西3丁目
石川啄木は札幌の印象を次のように記している。
「札幌に入って、予は初めて真の北海道趣味を味うことができた。日本一の大原野の一角、木立の中の家疎に、幅広き街路に草生えて、牛が啼く、馬が走る、自然も人間もどことなく鷹揚でゆったりして、道をゆくにも内地の都会風なせせこましい歩きぶりをしない。秋風が朝から晩まで吹いて、見るもの聞くもの皆おおいなる田舎町の趣きがある。しめやかなる恋のたくさんありそうな都、詩人の住むべき都と思うて、予はかぎりなく喜んだのであった。/しかし札幌にまだ一つ足らないものがある、それはほかでもない。生命の続く限りの男らしい活動である」。
牛馬がなく大いなる田舎はともかく、しめやかな恋があり詩人の住むべき都とはうまいことを言う。だからと言って焼きトウキビの宣伝をさせるのはいかがなものか。
歌碑に「しんとして 幅広き街の 秋の夜の 玉蜀黍(とうもろこし)の 焼くるにほひよ」とあるが、私ならば「札幌に かの秋われの持てゆきし しかして今も持てるかなしみ」を推す。(2005.08.08)
<元気な女性が支えるタウン誌>
旭川にタウン誌「郷土誌あさひかわ」という小さな本があります。コンパクトなB6横判で、文化的な情報の多い雑誌です。気の利いた料理店や喫茶店などに置いてありますので、旭川に出向かれたらぜひご覧下さい。(現在は終刊)
発行人は渡辺三子さんという女性です。年齢は営業上、「不詳」なのですが、推測すると、たぶん80歳は超えています。しかし、体も小さいのですが、そのバイタリティーと言ったら、ものすごいものがあります。
とにかくイベントがあれば必ず飛んできます。そして、パチリパチリと写真を撮り、取材をします。最初は「この人はなんだ?」と怪しく思うのですが、実は名物編集長と知って驚くという次第です。
彼女のいとこは日本を代表する前衛文学者の安部公房です。渡辺さんの母親と公房の父親は姉弟という関係です。公房は実家が旭川市東鷹栖で、満州(中国東北部)から引き揚げてきて、東京に出るまでの一時期暮らしていたそうです。公房の記念展を開いたりしています。公房のいとこらしく渡辺さんもシュールな人です。
渡辺さんは庁立旭川高女(現旭川西高)を出て、役所や新聞社、証券会社などで勤務しました。1960年に雑誌を始め、夫の三男さんが亡くなってからは発行人を継ぎ現在に至っています。営業と取材の両方をやるのですから、ずいぶん苦労も多かったようですが、持ち前のバイタリティーで乗り越えてきたのです。
親交を持った人には三浦綾子さん(作家)や砂澤ビッキさん(彫刻家)、さらに木内綾さん(優佳良織織元)といったそうそうたる人々がいます。さらに五十嵐広三さん(元旭川市長、画家)、三好文夫さん(直木賞候補作家)などもそうです。
最近は彼女の出会った多くの人々の思い出を中心に「問わず語りの記」という一代記の執筆を始めました。少し遠くなった懐かしい世界が広がっており、好評です。最新の8月号で通巻475号を数えます。「なんとか500号まで」というのが本人や関係者の目標です。私も旭川報道部長時代に知り合いになり、陰ながら応援させていただきました。頑張ってほしいものです。
(日航機が御巣鷹山に墜落し520人の死者を出してから20年の日を前に)
【いまさら探検隊】★☆
<3>控えめな札幌の原点「創成橋」=中央区南1、創成川上
わずか7メートルたらずの小橋だが、実は札幌で一番古い橋だ。最初に架けられたのが明治2年(1869年)、現存する橋は明治43年の造成である。ここを基点に札幌のマチは東西南北に広がっていった。橋の両側には歩道橋があり実際の橋は分かりにくい。おまけに、今は創成川の工事が行われているので環境は最悪だ。重機が創成川を無惨に切り刻み、往時のおもかげはまったくない。創成川がかように扱われることに、個人的には怒りを覚えるアンダーパス工事は2008年までかかるというので、かつての潤いある風景が様変わりすることは間違いない。なんか違うぜ!リアル札幌遺産! ほとんどの人が意識しないが、札幌の歴史散歩には欠かせない基点であるものの。(2005.08.10)
<戦争の体験は語り継ぎたい>
戦争が終わってから60年が経った。その気持ちは簡単には言い尽くせない。今年はメディアに多くの記事が載ったが、どれも何かしら心に残るものがあった。
月刊「文藝春秋」9月号に「運命の8月15日」56人の証言という企画があり、読み応えがあった。とりわけ印象的だったのは、野中広務元衆議院議員(当時19歳)の「切腹を止めさせた大西少尉」という一文だった。
高知の部隊で終戦を迎えた野中氏は模範的な軍国青年だった。軍隊に取られた時は、これで天皇陛下の御楯となれる、と素直に思ったというほどだ。だが、突然の敗戦に我を失い、仲間5人ほどで桂浜に集まり切腹して果てようとした。さあ、これから自裁という時に、上官の大西清美少尉という人が馬で駆けつけてきた。そして言った。
「お前たち、何を考えているんだ! こんなところで自分の腹を掻き割って死ぬ勇気があるのなら、東京へ行ってこの戦争を始めた東條英機をブッ殺して来い。それでなお命残ったら、この国の再建のために力を尽くせ」
それで野中氏は目が覚めた。東條英機の殺害はならなかったが、政治家として日本のために尽くすことになったのだ。大西氏の消息は不明となっていたが、このほどようやく甥と連絡がついた。5月に実家とお墓を訪ねた野中氏は「あなたのお蔭でで生かせていただきました」と語りかけ、「戦後60年の重い荷物を一つ下ろしたような気がした」と記している。
もう一つ印象に残ったのは「8月の空にスキップ」という作家の渡辺淳一さん(当時11歳)の文章だ。8月15日の玉音放送が死と隣り合わせの生活からの解放だったという。「よかった、これで父も母も、自分も死ななくてすむ」と思った。渡辺さんはその心境を次のように書いている。
「これからどうなるのか、未来はまったくわからなかったが、とにかく8月の青い空に向かって、口笛を吹きながら両手を広げて、スキップしたかった」
大衆の原像ということをずっと考えている私には、事の善し悪しはともかく、野中氏の過激さがよくわかる。私もきっと腹を切るか東條を切るかしていたような気がするからだ。一方で、渡辺さんの吹っ切れた感じも好きだ。重苦しい戦争権力が崩壊した瞬間には、青空にスキップしたくなるに違いない。大衆の生き方は、この二人の反応軸の空間の中にあるに違いないように思う。
人が生きているのも、だれかによって生かされているものだ。そして、「我が心の善くて殺さぬには非ず」でもある。戦争の体験は語り継がれねばならない。そして、戦争やテロは起こしてはならないのだと、あらためて思うのである。
(野中広務氏が敗戦を知ってから60年目の暑い日に)
【いまさら探検隊】★★★
<4>木が木でない「マイバウム」=大通公園西11丁目
姉妹都市ミュンヘン(サッポロ・ミルウォキーと唄うのは古い人だな)から贈られた友好のシンボルのオブジェである。1976年に設置され高さ23メートル。写真のように近くで見上げると、首が痛くなるので気をつけたい。「マイバウム」とは「5月の木」という意味で、新緑の喜びを表現している。マイはメイだから5月、木のバウムはドイツ語を習った人ならきっと「バオム」みたいな発音になる(と思うのだが)。この木は台風で倒れたり、老朽化で余されたりして、2001年に現在の形で納まったらしいのだ。木の幹をたたくと、コンコンではなく、カンカンと音がする。実際にたたくのは結構恥ずかしいからご注意を。木のはずがどうやら鋼鉄の幹に変わってしまったらしいのだ。ならば、(もうドイツ語は忘れてしまったが)「マイアイゼン(Mai Eisen)」というのが正しいのではないかと、おじさんは思うのである(と、なぜか小沢昭一さんになってしまうのであるが)。(2005.08.15)
<おめでとう! 駒大苫小牧 球児のみなさん感動をありがとう>
高校野球の夏の甲子園大会で駒沢大学付属苫小牧高校が2年連続で優勝しました。これは1948年の第30回大会で小倉(福岡)以来、57年ぶりの快挙だそうです。今さらでありますが、駒大苫小牧高校の選手、指導者、関係者のみなさん、おめでとうございます。本当にすごいことですね。
この大活躍にあわせて、北海道新聞は号外を発行しました。私も準決勝の19日、決勝の20日の2回、街頭に出て号外配布をしました。号外は大きなニュースがあった時に、朝刊、夕刊とは別に緊急発行するものです。事件や事故など悲しい記事のことも多いのですが、今回は感動のメモリアルですから、配る気持ちもさわやかでした。
優勝決定の20日は午後5時過ぎに号外の配布を始めたのですが、大通西3丁目の道新本社前には、その前から多くの市民のみなさんが列を作って待ってくださいました。早い時間から並ばれた人もたくさんいらっしゃいました。みなさんの熱い気持ちに頭が下がりました。「これからも、いい新聞をつくらなきゃならないな」と、あらためて肝に銘じました。本当に、ほんとうに、ありがとうございました。
私は苫小牧東高の出身です。ですから、駒大苫小牧は母校も同然です、と言うと学歴詐称になりますね。私のころは、苫小牧東高のライバルはすべての面で苫小牧工業高でした。お互いに相手を「イモ高」(イモ畑の後にあった工業高)「ガタ高」(老朽化がはなはなだしくオンボロでガタガタの校舎の東高)と呼び合ったものです。わがアイスホッケー部は全国優勝を続けていましたし、大学生や社会人よりも強かったのです。(漫画なら、ここで遠い目をするところですね)
駒大苫小牧はまだ新設高校で、まだ大きな存在ではありませんでした。しかし、野球やスピードスケートなどに徐々に力をつけていました。それから30数年、わが母校と立場は完全に逆転したようです。駒沢の研鑚には脱帽せざるを得ません。地道な努力が本当に大きく結実したのだと思います。苫東の後輩諸君! 奮起を期待しています。
スポーツは勝ち負けがはっきりするから潔いものです。でも、私がいつも負け組人生を送ってきたので言うわけではありませんが、多くの言葉が贈られる勝者と同様、敗者にもまた語られぬ多くのドラマがあります。栄冠は駒大苫小牧の諸君が手にしました。それと同時に、熱闘甲子園の主役はこの夏の大会に挑戦したすべての野球球児だったと思います。
お盆が過ぎ、甲子園が幕を閉じ、夏はもう終わりですね。しかし、今年は静かな虫の声を聞く前に、衆院解散のため総選挙が行われます。おかげで、札幌圏部も臨戦態勢に入って、選挙担当記者の夏休みは吹っ飛んでしまいました。うらめしや〜と言っても、出てくるのは解散の責任者じゃなくて幽霊くらいでしょうか。
(駒大苫小牧の球児たちが歴史となった日の夜に)
【いまさら探検隊】特別編
<5>コタンのシュバイツアー高橋房次氏とアイヌ碑=胆振管内白老町
私は胆振管内白老町に生まれました(そこから汽車で苫東高に通ったのです)。白老はアイヌ民族ゆかりのマチです。その地で、人を差別せず献身的に医療に従事し「コタンのシュバイツアー」と呼ばれた医師がいます。高橋房次さん(1882−1960年)です。貧しい人々から医療費をとらずに診療もしました。それで多くの人たちから感謝され、1955年、名誉町民第一号に選ばれています。
その高橋さんの活動を記念するとともに、アイヌ民族の先祖の労苦と功績をたたえ、このほど氏の胸像と新しくアイヌ碑が、高橋医師の居住地跡に設置されました。白老アイヌ民族記念広場となったその場所を、私はお盆の里帰りの合間に訪ねてきました。一連のモニュメントは予想以上に立派で関係者の熱い思いが伝わりました。
実は子供のころ、高橋先生に診てもらった記憶があります。結構、お年寄りでしたが、温かい感じの人だったと思います。エライ人とは知る由もありません。その息子さんは歯医者さんになられました。私のかかりつけでしたが、人柄の良さは房次さん譲りでした。房次先生は「コタンのシュバイツアー」と呼ばれています。私は少し違うような気もします。高い文化(背景にあるのは帝国主義とキリスト教)の位相から、遅れた民衆を救済=教化するという欧米知識人ボランティアとは、房次先生は別のところにいたように思うからです。庶民との哀感を共有する隣接する場所で生きていたようです。
白老町ではアイヌ民族のイオル(伝統的生活空間)再生構想の先行実施が事実上内定しています。町内には多くのアイヌ民族関係の施設があります。機会があれば記念広場を多くの人がご覧になり、歴史を知っていただければいいと思いました。(2005.08.22)
【いまさら探検隊】★
<6>「吉井勇の歌碑」=大通公園西4丁目
旅の恥は書き捨て(掻き捨てかな)、と言いますね。それがどうしたと言われると、別にどうってことないんですが。いや、その、ですね。偉い人の場合、それが立派なお筆先になってしまうようです。大通公園の4丁目を歩いていると目に入ってしまうのが、吉井勇の歌碑です。
「窓ごとにリラの花咲き札幌の人は楽しく生きてあるらし」
きれいな歌です。しかして、ものすごく楽観的というか楽天的な一首です。昭和30年(1955年)、初めて北海道に来て詠んだのだそうです。「もはや戦後ではない」という言葉が盛られる「経済白書」が出るのが1956年。まだ、敗戦後の疲弊と混乱と復興は続いていたはずです。それなのに、歌の旅人は札幌を見て(青木さやか風に言うと「どこ見てんのよぉ」って突っ込み入れたいところなのに)、なぜか、のどかな超時間的な世界を描き出しています。私なんぞには、これは現実じゃなくイデアの世界と思えますね。
「白秋とともに泊まりし天草の大江の宿は伴天連の宿」(熊本・天草)
「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」(京都・祇園)
「雪ふらば君に逢はんと誓いたるその山代に今宵雪降る」(石川・山代温泉)
「萩に来てふとおもへらくいまの世を救はむと起つ松陰は誰」(山口・萩)
「千光寺の御堂へのぼる石段は我が旅より長かりしかな」(広島・尾道)
ほんの一例ですが、吉井勇は全国に優れた歌碑を残しています。リラの歌は得意の歌風に、京都じゃなく札幌を置いただけのようにも見えますが、にもかかわらず、残ってしまうのが文学の不思議。ロマンチシズムの力はすごいですね。
ライラックは1960年に札幌の木となっています。(2005.08.26)
<主役はだれか−時代錯誤の集団責任論>
駒沢大学付属苫小牧高校の夏の甲子園大会優勝が有効であると、晴れて認定された。いうまでもなく、同校の野球部長が部員を殴ったことが発覚して、「暴力隠し」だの「優勝取り消し」だの大問題に発展した。この間、多くの道民が心を痛めたことを思うと、常識的だけど、とても良い結果が出たと思う。
だが、この問題は言われるほどの大事件でもなんでもない。不祥事に対処する大原則は2つしかない。
<1>教育の現場で体罰、暴力、鉄拳制裁はいかなる事情であれ、許されない。被害者には十分な救済・補償を行い、一方、暴行の当事者には応分の責任を取らせる。また、指導者はそうした暴力体質に流れないように努める。
<2>暴力が集団で行われたり組織体質と密接不可分でない限り、連帯責任は問わない。あくまでも、当事者のみの処分にとどめる。努力研鑽している個々人の能力を発揮させることに腐心し、よほどのことがない限り、「一億総ざんげ」「相互監視の隣組」的な無限責任論を持ち込んではならない。
これが軍国主義と軍隊的統制への反省から出発した戦後民主主義と教育の基本だ。
だが、高校野球の現場では、こうした原則が必ずしも守られず、「暴行事件があった」「タバコを吸っていた酒を飲んでいた」と言った不祥事がフレームアップされ、いつのまにか学校やチーム全体が坊主懺悔し、連帯責任で甲子園への道が簡単に閉ざされてしまうことが頻発する。それを通報して有力校を陥れているような卑劣な動きがあるのではとの疑念さえ時々感じるほどだ。一人の責任が全体の責任にすり替えられ、当事者は身に余るほどの全体責任を一生、十字架のように背負わされてしまうのだ。そんなのは誤りだ。今回の駒沢苫小牧の優勝はだれがどう見ても立派な快挙であり、生徒たちは自らの栄冠に胸を張るべきだろう。
重ねて言おう。現代社会は多様だ。純潔主義など実態に合わない。だれかが不良行為をしたからと言って、それに関わりのない人までも同じ罰を受けなければならない道理は全くない。これは高校野球にとどまらずバレーボールであろうが、陸上競技であろうが、高文連であろうと同じである。学校のどこかで不祥事があろうと、個別活動はなんら制約を受けるものではない。
主催するマスコミもこの本質的問題をきちんと指摘すべきなのだ。高校野球にのみ集団倫理を押しつけてはなるまい、たとえば、自作自演のサンゴ事件問題や取材メモのねつ造があろうとも、当該マスコミのすべての記者が取材を自粛しなければならないなんてことがあっていいはずがないのは当然なのだから。
この国では戦後民主主義が未だ成熟していない。それが駒沢騒動の本質である。
さて、民主主義と言えば、いよいよ総選挙が始まった。政治家が一般国民に審判される唯一の機会である。政党か候補か。選択は難しい。共産党を除き、多くの政党の基本政策は似通ってきている。ならば、余計に候補の話をじっくり聞くべきだろう。どんな立派な裃を着ていても、内容のない人間は結構いるものだし。
日本国憲法はその前文の冒頭に次のように記している。
<日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。>
選挙の主役は私たち国民なのである。これが大原則である。
【いまさら探検隊】★
<7>「時計台」=札幌市中央区北1西2
札幌のシンボルと言えば、これである。人気、知名度ナンバーワン。観光客がわっと押し寄せている。これだけ話題なら出会いもあろう。石原裕次郎だって「時計台の下で会って私の恋は始まりました」と唄っていることだし。
ということで、行ってきました。と言っても、時計台は会社の斜め向かいにあるので、通用門を出れば1分で着くのですが。啄木じゃありませんが、「しめやかなる恋」でもあるんじゃなかろうか、と詩人のなれの果ての私は、赤いハンカチならぬボロ手ぬぐいを首に巻いて裕次郎気取りだ(ぜんぜん違うって? 裕ちゃん、スミマセン)。
「お嬢さん、何かわからないことがあれば僕が」。てな会話の予定稿が頭の中を巡っていたのですが、なんちゅうか、いきなり多国籍モード。「○×■□」「▲◎□◇」「?**(;_^)」。しかも、周囲は単なる記念写真スポットと成り果て、その由来をじっくり尋ね眺めて観賞するって感じは全くなし。百年の恋の期待なんて無理ムリ。スミマセン、私が悪うございました、とすごすご引き揚げたのであった。
私が時計台なら、「オレの話を聞け!1分だけでもいいから」と叫びたくなることだろう。正式名称は「旧札幌農学校演武場」。今もある北海道大学の前身で、兵式訓練や心身を鍛える体育の授業に使う目的で建設された「演武場」である。その割には教会っぽいのは、お雇い外国人の影響だろう。この時計はメイド・イン・USA。舶来というか、ニューヨークっ子である。1879年に札幌に来たそうですから、126歳。長寿である。
(2005.09.01)
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