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北海道文学を中心にした文学についての研究や批評、コラム、資料及び各種雑録を掲載しています

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勝手にwebいまさら探検隊column

勝手にweb「つぶやき」と「いまさら探検隊」4    2005~2006

<終わりなき日常と祝祭空間>
 なんだ、このタイトルは! と怒られる方も多いでしょう。きっと。「もったいつけずにポイントを40行以内で書け」と、湯気を上げて(死語?)怒るわが部のデスクの顔が目に浮かびます。で、本題。
 いよいよ忘年会シーズンですね。実は昔から私は忘年会が嫌いで、部員時代には「風邪をひいた」「腹が痛い」「親戚が死んだ」(釣りバカの浜ちゃんかよぉ~)みたいな御託を結構並べては欠席したものでした。それでも、大方は出てました。やはり1年に1度、無礼講で大騒ぎしたいものです。だけれどもね、最近は盛り上がらないですよ、との幹事さんの嘆きが聞かれます。
 忘年会という装置が成立するには「つらい労働の日々」⇔「祝祭による解放」という対立軸が成立していることが必須です。貧しさもありました。しかしながら、現代ではその構図が崩れました。つらい労働は変わっていないかもしれませんが、たぶんさまざまな形で労働の形態が変わり息抜きができるようになっているからです。スポーツなどの趣味があり、ゲームセンターがあり、パソコン(インターネット)や携帯があり、さまざまなアミューズメントがあるからです。過酷な現実が中和されると解放のレベルも下がります。
 ある意味では、引きこもってテレビゲームで恋愛を成就させたり、立ちはだかる敵を倒すのも、パチンコでフィーバーを連発するのも、ひとつの擬似解放感と言えるかも知れません。ミーイズムの時代性、現実のつらさと解放のレベルの低下こそが<ハレ>の場=忘年会を盛り上がらせない原因だと思われます。
 昔は忘年会と言えば、必ず負傷者が出ました。ガードレールに激突したり、階段から転落したり、入院する人も少なからずいました。誉められはしませんが、それが許されたのです。そして、会場もグルメ派とお色気派(当時は男だらけ社会でした)に別れます。高級なフグを1年に1度食べたいというグループと、きれいな女性のいるキャバレーかクラブで鼻の下を伸ばしたい勢力が綱引きをしたものです。あるいは昔の軍隊みたいに「全舷部会」と称して山中の温泉に全員篭って気勢を上げたりしたものです。ちなみに20年くらい前の話ですよ。
 その場合のルールは「無礼講」ということです。つまり職場の階級やら性別、職能、年齢にかかわらず、全員が祭りの場では平等であるということです。限定された空間という前提で、酒の勢いで部長の頭をなぐってもOK。裸踊りで暴れてもOK。木に登ってもOK。みたいなアナーキーな感じです。
 でも。そんなのは通用しなくなりましたね。酔っても殴れば暴行ですし、裸踊りはもちろん、木から落ちても誰も同情しませんよ。社会常識が<祝祭>空間での逸脱を許さなくなりました。日本各地のお祭りを見ていると、まだそうした社会常識とは別のところで無礼講が許されています。それは<神事>だという錦の御旗、お墨付きがあるからでしょぅか。
 私はもう忘年会の時代は終わったと思います。いつも顔を合わせている人間が同じ職場関係で酒を飲んで面白いものでしょうか。終わりなき日常の延長線での擬似的祝宴に若い人が価値を見いだすとは思えません。お酒は独酌が一番、二番は気の合う相手と2人酒、3人以上はストレスが残るだけです。とはいえ、この季節、「年に一度は」の風習は消えません。それは、日常を超える解放感への期待が残っているということなのか。だとすれば、高度消費=情報化社会で、どんな<ハレ>の場が可能なのか、大きなテーマです。
(1日で54歳になりました。天皇家の愛子さまより50歳年上です)

【いまさら探検隊】★★☆
<22>「路面電車」=大通西4-西線経由-すすきの

 11月19日の新聞夕刊に路面電車特集が載っておりました。札幌には今も路面電車が走り、モータリゼーションでなんだか気ぜわしいマチに潤いを与えていますね。
 私は1970年に札幌に出てきましたが、最初は円山のふもとに住んでおりました。それで、円山公園から一条橋行きの市電に乗り、三越前で新琴似行きに乗り換え、北18条(たぶん)で降りて大学に通っておりました。苗穂方向にも市電は走っていて、それなりに便利だったのを覚えています。
 札幌に路面電車が走ったのは1918年(大正7年)。北海道大博覧会に合わせて、札幌電気軌道株式会社が開設させたのだそうです。ということは80数年の伝統があるのですね。ちなみに、私が6月まで勤務していた旭川にも73年まで路面電車があったそうです。そういえば、バス会社の名前も旭川電気軌道なんて言いますものね。
 路面電車が下り坂になったのは、札幌五輪に向けて地下鉄が開通するようになってからのようです。その当時は、路面電車は自動車の通行の邪魔だ、遅いってことで、すこぶる評判が悪かったのを覚えています。でも、時は移り、その環境調和性が高く評価され、車社会が飽和感を強める中で、その利便性も見直されているようです。
 先日、札幌市の上田市長と懇談する機会がありましたが、市長は市電の価値を高く認められ、より良くしたいと考えていることもわかりました。結構なことだと思いました。今は、三越前の大通西4丁目から南1条通りを走り、15丁目で西線エリアに入り、昔の教育大学の跡地前を通ってススキノに戻ってきます。でも、ススキノと西4丁目はつながっていません。他の公共交通機関との連絡も必ずしも十分ではありません。あと、スピードも少し遅すぎますね。
 日本各地には路面電車を上手に活用している都市も多いようですので、札幌ももっと工夫次第で、便利になりそうですね。(2005.12.02)

【いまさら探検隊】★
<23>「札幌遠友夜学校跡」=中央区南4東4
ありし日の勤労青少年ホーム
 わが家から歩いて数分で豊平橋に着く。その橋の手前に「札幌市中央勤労青少年ホーム(Let's中央)」がある(今はない。公園になっています)。ホームページによると、「15才~29才の勤労青少年及び専門学校生が様々なジャンルのグループ活動を実践し、個人の社会性を高めていく。特徴としては利用者の発想による研究会活動及びボランティア活動」とある。働く若者の社会学習・交流の場として大いに利用されているようだ。
 この「レッツ中央」は、「札幌遠友夜学校」の跡地にあることでも知られている。遠友夜学校は札幌農学校の基礎を築いた新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)・萬里子夫妻が創立した。1894年(明治27年)に開設された夜学校は、貧しくて学習の機会の得られない青年たちのために、新渡戸の情熱に共感した札幌農学校の学生や職員たちの協力によって実現した。宮部金吾(植物学)や有島武郎(作家)などもかかわっていた。
 「遠友」の言葉は、中国の思想家・孔子の「論語」の「朋(友)あり遠方より来たる、また楽しからずや」から採用したものである。授業料は取らず、男女共学で、昼間は工場などで働く若者の向学心を支えた。夜学校は1944年(昭和19年)に政府の命令で閉校された。だが、半世紀の献身的な活動で延べ1000人以上の卒業生が巣立っていったと言われる。
 私は1970年に札幌に出てきたが、最初に暮らしたのは円山のふもとにあった「明朋寮」という学生寮であった。そこは市町村職員の子弟寮で、貧しくて、右も左もわからぬ田舎出の青年の学生生活はそこで始まった。学校などで「有朋」という言葉も良く聞かれるが、貧しい学生は「朋友」に交わり支えられてきたのである。
 建物の前には山内壮夫による、新渡戸夫妻のレリーフが刻まれた花輪を持って立つ青年の銅像がある。豊平橋の周辺は今はおしゃれスポットになりつつある。だが、「遠友夜学校」の文字を見つけると、先人の情熱に心打たれる。そして、「向学心」などという言葉が死語となりつつある現代社会の変化を思い、複雑になるのである。(2005.12.09)

【いまさら探検隊】★
<24>「北海道厚生年金会館」=中央区北1西12

 先日、ポール・モーリア・グランドオーケストラの公演を見に厚生年金会館に行ってきました。「恋はみずいろ」とか「オリーブの首飾り」とか、おなじみの曲を聞いて、懐かしくなりました。会場は年配の方がいっぱいで、ファン層がどんななのかわかります。
 同会館は誕生から34年になります。ホームページを見ると、「昭和46年9月、厚生年金保険の被保険者とその家族のみなさまをはじめ一般の人々の文化と福祉の向上に貢献するため建設された国の施設です。北一条文化ゾーンに位置した当会館は、周囲のアカシヤ並木と美しく調和した閑静な緑の環境のなかで、客席数2300・東京以北最大の規模の大ホールは近代的設備をそなえたゆき届いたサービスを低料金で、どなたさまにも気がるにご利用いただける施設でございます」とあります。
 その施設が搖れています。今年5月、年金保険料の無駄づかいへの批判を浴びた社会保険庁が、国内約260の年金福祉施設の売却・廃止を突然決めたのです。そりゃあ、不要な施設に無駄遣いの限りを尽くしたのですから、当然の結果です。一方で文化団体などが存続を求める運動を進めていますが、道も札幌市も財政難の中で身動きがとれていないようです。最近の報道を見ると、厚生労働省は「コンサートなどの会場として利用されている多目的ホールの存続」を売却の条件とする方針を決めたという。道内に同じ規模の代替となる施設がないという判断からで、同会館は運営主体が変わっても、存続される可能性が出てきたらしいとのことです。
 しかし、「国の施設」でなくなることは間違いない。50億とも60億円ともいわれる施設を民間が購入し、運営することが現実的なのかすこぶる疑問です。一方で、文化活動に熱心な人たちには厳しいかもしれないが、この種の施設が国に頼らなければできないというのは、少し違う気もします。スターリン主義に庇護された文化科学のあり方なんて大嫌いの私でしたから。たまに行く利用者としては、入れ物も大事だけれど、もっと大衆化した料金を望みたいのですが。ひとつの施設を絶対化せず、この問題を注視したいと思っています。(2005.12.16)

<さようなら2005年 想像力の貧困を実感>
 私はビートたけし=北野武監督のファンです。しかしながら、彼の映画に対しては毀誉褒貶(きよほうへん)が飛び交っています。商売上、マスメディアは批判的な意見を抑え気味ですが、一部の専門家からは激しいダメ出しが続いています。一般的(たとえば、私の家人)にも「ただ鉄砲撃って、人切って」みたいな印象を持たれているようで、まったく評価していない人が多いようです。
 一番の不評の部分は、その暴力性だと思います。北野作品は確かに、痛い。1人の人間に対する暴力がかなり執拗です。私たちの感性が拒否します。しかし、これは北野監督が自ら言っているように、意図的なものです。むしろ、ハリウッドの大スペクタクル映画では簡単に原爆を使ったり、10万人くらいの人を殺したりしています。それらの映画では具体的に10万人の痛みが伝わらないが故に暴力性・残虐性は看過されているのです。
 なんでこんなことを述べているかというと、暴力性というのは対象との距離によって、ずいぶん恣意的だということを言いたいのです。10万人死んでも娯楽大作で、せいぜい数人か10数人が死ぬ姿がリアルなために暴力作品というのは違うということです。
 今年も多くの人命が失われました。国内では「尼崎でJR西日本の快速電車が脱線転覆し、107人が死亡」ということが1番のニュースだったと思います。そのむごさ、犠牲者の苦しみは今も私たちを離しません。鉄道会社の非人間的な対応への怒りも消えません。次々と明らかにされる労務管理の異常さに唖然とさせられました。さらに、この1カ月はマンション、ホテルの耐震強度偽装問題が噴出し、安い!速い!広い!を売り物に、安全と人間の命を軽視した不動産業者と建築士、検査会社、その指南役たちが国民の生命と財産を脅かしていたことが明らかになっています。おそらく、これによって影響を受ける人の数は万単位になると思います。
 次に世界に目を向けます。イラクではどうでしょう。毎日のように、数十人がなんらかのテロ(自爆攻撃や米軍の爆撃、内戦など)で亡くなっています。そのことの無意味さ、残酷さに私たちは鈍感になっているような気がします。インドに近いカシミール地方で起きたパキスタン地震では死者数はすでに7万人を超えています。7万人!です。これはたぶんヒロシマ原爆の半分、ナガサキ原爆と同じ規模の死者数だと思います。想像できますか。7万人が一瞬で死ぬ姿を。一方は人類の非行であり、他方は自然の現象との違いはありますが。
 先日、外電=国際面に、1段(ベタ)見出し扱いで20行足らずの記事が載っていました。「チャド軍が19日出した声明によると、同軍はスーダンとの国境沿いの町に攻勢を掛けた反政府勢力と18日交戦し、反政府側の約300人を殺害した」(21日の北海道新聞)。300人殺害!です。尼崎事故の3倍!です。北野武映画で300人を殺害される場面を想像してみてください。その痛ましさがわかるはずです。
 私たちは事件の痛ましさを、ともすれば、その地域性(欧米であるかアジア・アフリカであるか)と大きさで計りがちです。しかし、1人の人間に訪れる死の重さは変わりません。被害を受けるのが1人でも、その1人にとっては絶対的です。だれとも命を交換できません。だとすれば、人間主義の基本からは、「1人の命は地球より重い」ということに尽きます。その上で、複眼的に規模や影響を考える必要があります。
 私たちは世界のどこかで1万人死ぬことよりも、同じ日本国内で100人が死ぬことに反応します。痛みは具体性を通じて喚起され、同じ社会を生きている共同性のほうを重視します。私たちが「同胞」を気遣うのは自然の感情です。しかし、大切なことは、それでも地球上のどこかで、私たちの人類が、人間と自然の暴力に今なお苦しめられているということを忘れないこと。そのために何ができるか想像することを忘れないことです。
 私の想像力は年をとるに従い、少しずつ貧困になりつつあります。社会が内向きになっていることの個人心理への反映かもしれません。その感性の鈍化を今年1番の重大ニュースとしたいと思います。(道内では駒苫の甲子園連覇が1番の話題でした)

【いまさら探検隊】★
<25>「森田たま生誕の地」=中央区南1東4

 先日、「札幌遠友夜学校」を探して歩いていたとき、偶然見かけたのが、これでした。作家・森田たまさん。知っているかなあ。で、略歴。生家跡の前には次のように記されている標識がありますので、紹介しますね。
 随筆家・森田たま生誕地:明治27年(1894)12月19日に南1条東4丁目のこの地で生まれた(土屋邸奥の土蔵は遺構)。庁立札幌高等女学校を中退して44年に上京し、大正2年に小説家として出発する。北海道出身女流作家の第1号。昭和11年「もめん随筆」で随筆家の地歩を築き、現代の清少納言と称された。/ 故郷の風物を描いた作品が多い。女性らしい感覚で詩情をたたえて描いているが、青春自画像を刻んだ「石狩少女」は得難い小説である。/昭和45年(1970)10月31日、満75歳のとき東京で没した。
 この中で感動的なのは「北海道出身女流作家の第1号」というくだりです。すごいな。何事もナンバー1ってのは、簡単にできるものじゃない。その上、「現代の清少納言」ですから、1000年の時を超えた才人ということになります。手近にある「さっぽろ文庫・札幌随筆集」から「私のふるさと」という作品の触りを紹介します。
 ひゆうとするどい風の音が、窓硝子にぶつかつて、がたがたと硝子がふるへる。昨日の午後からはじまつた吹雪は、一昼夜ぶつ通しに荒れて、まだやまない。窓のそとにうづまく雪片は、雲は白いものだなどといふ常識からは、はるかに遠く、鉛の屑で天地を埋めたやうに、眼界はただ灰色の一色でぬりこめられてゐる。(原文のまま)
 失はれたのはさういふ風景(注:木造の粗末な町並みや道ばたの風景)ばかりでなく、札幌の人たちの強い団結力のやうなもの、あの吹雪の日に、すさまじい風のあひまをかがつて、正確に時を伝へてくれた時計台の鐘のひびき、あの音によつておたがひに生きてゐることをたしかめあひ、手をつないで自然の脅威にたちむかふ決心をかためあつたやうな、当時の精神までうすれたのではなからうかと、さういふ危惧がある。(同)
 うまいですねえ。言葉にむだがない。彼女は1962年に参議院議員になっており、本作はもともと「ぎゐん随筆」に収められているそうです。東京では夏目漱石の弟子の森田草平に師事、旧姓は村岡で婿養子を取っていたのですが、大恋愛の末に学生の森田七郎と結婚。大阪に住みますが、その家が没落したため再び東京に戻り、書いた「もめん随筆」が評判となった。恋愛騒動のころは自殺未遂もあるようで、なかなかに波瀾万丈です。ちなみに、小学校の同級生に素木しづがいて、2人とも森田草平に弟子入りします。素木しづは画家の上野山清貢と結婚しますが、夭逝しています。不思議な縁ですね。
(2005.12.23)

<あけおめ、ことよろ、ドッグフル>
 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。これを若者言葉で略すると、「あけおめ、ことよろ」となるそうです。なんだか情緒がないですね。世の古きを絶ちて、新しきを寿ぐというありがたさが若者言葉にはありませんね。
 今年は戌(いぬ)年です。いただいた年賀状にはお犬様の写真やイラストがずいぶん使われていました。12支なんて迷信のようですが、結構人気があるようです。ちなみに、私も犬の写真を入れました。17年間ほど飼っていた愛犬チロの2歳のころの勇姿です。今を去る44年前の写真です。犬小屋にはムシロがかかっていて、屋根の上で自由を求めてチロが何かを叫んでいます。
 そのころは貧乏でしたので、ろくな食べ物も与えられませんでした。飽食の現代では考えられないことですね。この歳になって思うのは、せめて17年間一緒に暮らした愛犬に本当においしいものを食べさせてやれなかったことが心残りだということです。僕にはそうした悔悟の気持ちがあって、後に1つの詩を書きました。
 
    失踪宣言
 病に伏していたはずのあいつが
 何を思ったのかふいに家を出た
 みんな心配になって探し回ったが
 結局、そのまま帰って来なかった

 小学校4年生のころ
 家にもらわれてきた
 赤痢になったりバットで殴られ幾度か死にかけたが
 そのたび不屈の生命力で打ち勝ってきた

 裏の海岸までよく散歩に行ったものだ
 右手に樽前 左手にオロフレ
 薄ケ原を遠く落ちていく夕日の鮮やかさ
 その風景を駆け抜けていったあいつ

 北海道犬の雑種だったチロ
 開発のため全ての美なるものはじゅうりんされてしまったけれど
 ぼくはもう一度ハマナスの咲き乱れていた砂浜を
 一緒に走ってみたいのだ

 大きな栗の木の下に今も君の家は残っているよ
 生きているなら帰ってこい
 揺るがぬ意志の健在を示すために
 ぼくたちの希望を奪還するために

 そうです。チロはたぶんガンになって、死に場所を求めるように、我が家から消えてしまったのです。17年間も可愛がっていたのに! それ以来、僕は犬や動物を飼うことやめました。最近はぬいぐるみ(とりわけ、クマ系)のファンとないりました。まあそれはどうでもいいことですが。
 時々、思うのですが、犬にとって幸せって何かなあ、って。上げ膳下げ膳で至れり尽くせりの生活を送っている「お犬様たち」。でも、本当は野性に戻りたいのでは、などと夢想します。そのパラドキシカルな気持ちを短編小説にしていますので、戌年の今年、あらためてお読みいただければ。
 
  「出発の時」
 僕が家を出ようと決心したのは十七歳の春だった。
 美しい田園地帯と背後に連なる勲しい山並みが、僕の中の決意をかきたてた。「現状に甘んじて生き過ぎてしまった。自分を見つめ直すしかない」。心の奥から湧き上がる情熱の嵐。旅立つのは今だ!

 僕は小さな時からみんなに可愛がられた。
 タカオ兄はお姉さんから「めんこい弟ができて、よかったしょ」と言われ、少しはにかみながらも僕を抱いてくれたものだ。現代っ子のように、ゲームばかりをして遊んでいるわけじゃないのに、厳しいお父さんは「外に出し、世間の風に当てたほうが強くなるんじゃないか」などと言った。でも、ほかの家族は「まだ小さいのだしそんなに急がなくても」とかばってくれた。
 僕はどんな病気なのか教えられていなかった。だが、一人で外に出ちゃダメ、と言われていた。
 だから、家の中で手足を動かす訓練や数字を使った頭の体操をして過ごすことが多かった。時々、タカオ兄のパソコンを触って遊ぶのだけれど、「不器用だから見ていなさい」と、すぐ席から下ろされてしまう。
 そんなふうに平穏な日々が過ぎた。体も大きくなったある日の夕方、タカオ兄が「散歩に行ってみようか」と僕を誘ってくれた。
 その時、初めて夕焼けを見た。澄み渡った天空をオレンジ色に染め、山のかなたに落ちてゆく太陽。その果てに、どんな世界が開けているのか。あの夕日を追って、行けるところまで行って見たいと思った。
 僕はロマンチストなんかじゃない。でも、だれにだって心動かされる光景はあるものだ。そしていつの日か、チャンスがあれば一人で旅に出ようと誓った。そうして何年かが過ぎ、僕は十七歳になっていた。
 深夜、みんな寝静まったころを見計らい、家を出た。
 僕は大きく深呼吸をしてから思いっきり走りだした。道はどこまでも続いている。遠くまで行くんだ。

 気がつくと僕は河原に倒れていた。隣には体の大きな野良がいる。彼は哀れむように言った。
 「おまえ、ドッグ・イヤーって知っているか」
 「なんですか。それ?」
 「犬の一年は人間の四、五年いや七年と同じなんだ。おまえが人間なら、八十歳をとうに過ぎている。しかもシーズーという宮廷で飼われたほどの上品な犬族だから、全力で走れば悲しい結果は目に見えている」
 ああ僕はこのまま死ぬのか。無謀すぎた。でも、僕の野性が大きな吠え声となった。苦しいけれどうれしい。次第に薄れていく意識。どうやら本当の出発の時だ。

 ワンダフルでドッグフルな新しい年には新しい挑戦を。今年もファイト!
(犬も歩けばニュースに当たる-特ダネもよろしく)

【いまさら探検隊】★
<26>「豊平橋」=中央区南5東4付近

 大学に通っていたころ、豊平の川尽きせぬ流れ、友たれ長く友たれ、なんて歌を声をからして歌わされました。いい曲ですが、もともと軟派人間なので強制的な歌唱はあまり好きな思い出ではありません。で、歌にはまったく関係ありませんが、その川にかかる豊平橋は札幌から豊平の街へ渡る<結界>のようです。
 ですから、そこは一種の三途の川かしら。なんて言うと、怒られますが、その昔、豊平川で心中を図った酔狂者がおりますね。明治の文人、岩野泡鳴(1873-1920)です。「放浪」「断橋」など破天荒な人生を描いた泡鳴5部作が有名です。もっともやることなんでも尋常じゃありませんので、大馬鹿者として当時から有名だったそうですから、筋金入りの変人です。
 小説によれば、こうです。伊藤博文の暗殺に興奮した義雄(岩野泡鳴)は「おれは宇宙の帝王だ! 否、宇宙その物だ!」とかなんか叫んで、一度死ぬ気になります。さらに愛人との生活に行き詰まり、また死ぬことにします。月がかげったり照らしたりする雪道を2人は死に神か亡霊のように進みます。大通、南1条、2条、狸小路を抜けて創成川を南下、そして豊平橋に出ます。そして、2人は抱き合って橋から闇の底に落ちたのです。
 まあ、これでふつうは一巻の終わりです。ところがそこは岩野泡鳴、橋の下には溺れる水も骨を砕く岩もななかった。実は川床には深々とした根雪がありまして、それがクッションになった。それで、一命を取り留めたというのです。それで、我に返った2人、天命を喜ぶかと思えば、「ありゃ、櫛がない」と大騒ぎする始末。まあ、いかにもの大馬鹿者らしいオチです。時に明治42年11月3日。当時の天長節のことだそうです。ちなみに、私の引用の種本は木原直彦さんの「北海道文学史 明治編」です。そこにはこの投身事件は小説をもって事実と即断するのはいかがという趣旨の和田謹吾さんの研究も紹介されています。ですから、泡鳴が実際に自殺を図ったかどうかは怪しいのですが。
 私は、時折、豊平橋のほうに散歩に行きます。この季節、大雪で橋はよく見えなくなっているので迫力不足ですが、たしかに、自殺したい気分になる時もなくはありません。ただ、私は泡鳴のように悪運が強くないので、落ちるのだけは遠慮したいと思っています。今は周囲がずいぶんハイカラ(死語!)になりました。歩きながら川底をのぞき、かつての破滅型作家の珍事を想像するのはそれなりに楽しくはあります。(2006.01.13)

<ネット・バブルのマネーゲームの終焉>
 インターネット関連企業のライブドアが証券取引法違反で強制捜査を受けたニュースが流れました。飛ぶ鳥を落とす勢いだった新興IT企業が大きな蹉趺に見舞われたのを複雑な思いで見つめていました。うまく言えませんが、ライブドアの堀江貴文社長(容疑者)の活躍ぶりはすがすがしいものがあったからです。
 それはさっそうとした登場ぶりでした。行き詰まった職業野球の活性化のために真っ向から手を挙げた姿に、多くの人は拍手喝采したはずです。その風貌(ふうぼう)と名前から「ホリエモン」コールが巻き起こりました。しかし、その試みは少し老獪(ろうかい)な別のIT企業のオーナーに油揚げをさらわれる形で終わりました。それでも、時代の風雲児登場の鮮烈な印象は残りました。次にラジオ局の株を買い占め、テレビ局に迫りました。その時の「企業は株主のもの」という論理は会社が財閥資本や銀行や特定の私的グループのものであるかのような日本的な常識を、資本主義の原則に戻すコロンブスの卵的発言でした。「通信(ネット)と放送の融合」という理想のスローガンも現代の気分を伝え新鮮でした。
 だが、その試みはまたしても中途半端に終わります。さまざまな「大人」たちが、彼の野望を防ぐために立ちはだかったからです。それからは衆院選への唐突な立候補に至ります。「改革を止めるな」という小泉首相の応援団になったのです。その発言は地に足をつけたところは全くなく、とってつけたように空虚でした。転落の予感を感じました。案の定、落選します。今思うと、その空虚さは株主資本主義論の無内容さに通じていました。それは企業実態を無視した拝金主義の別名だったようです。
 ライブドア事件はまだ全容が明らかになっていませんし、ワンマン社長の堀江容疑者の関与も不明です。ただ、全体としては、ライブドアの堀江社長の格好良さのメッキが剥げた印象はぬぐえません。つまり、法制度の不備をつき、そのすれすれのところで、利益を得ようとする手法は賢いけれど、美しくありません。ルールから逸脱していないと強弁し、なんでも「想定の範囲内」では通らないはずです。
 今は株ブームなのだそうです。ネット社会らしく、多くの人が気軽に株を売買するようになっているそうです。だけれども、そういうマネーゲームが若い人をも巻き込んでいることに、いささかの懸念を覚えます。18日には株式の取引が膨大な件数に達し、対応できなくなった東証が取引を全面停止する事態も起きました。ライブドア事件の影響の大きさを象徴する事態です。額に汗することよりも、ネットの世界、見えないマネーの世界が価値を持つことは社会の規範の崩れを浮き彫りにします。世の仲では「勝ち組」「負け組」という言葉が流行っています。その結末がホリエモンの登場と挫折とすれば、この国はなんだか変になっているように思うのです。
(対震強度偽装のマンション問題も腹立たしいことばかりです)

【いまさら探検隊】★
<27>「大雪のマチ」=全市  

 今冬は北日本の日本海側を中心に大雪が続いています。雪の猛威の前に、孤立生活を余儀なくされている地区も出ているようです。この大雪は現時点的な雪害にとどまらず、融雪期には雪崩や洪水やらが予想され、その危険も懸念されています。
 以前は雪まつり時期の雪不足が言われることがありましたが、今冬の札幌は大雪の支配下にあります。幹線道ですら歩道には雪山が残り、路地裏に入るとそこは歩くのもやっとの細道と化しています。私はそりゃあ役所だって手が回らないだろうと思いつつも、やっぱり腹立たしくなります。その光景は全市的だと思います。
 2004年2月から3月にかけて新聞連載された「さっぽろ解剖」第2部によると、
「札幌管区気象台によると、札幌の年間降雪量の平年値(1971年から30年間)は496センチ。観測史上、最も多かったのは1996年の680センチ。1日で最も多く降ったのは70年1月31日の63センチだった。積雪が最も深くなったのは39年(昭和14年)2月13日の169センチ。区別の降雪量を、各区土木センターの観測を基に過去10年間の平均でみると、最多は西区の654センチ、次が北区の629センチ。最少は豊平区の500センチと大きな差がみられた。」
 と書かれています。札幌には毎冬5メートルの雪が降るのです。5メートル!ですよ。
 どうしてこんなに雪が降るのか。同記事は北大大学院理学研究科の教授、播磨屋敏生さんの指摘を紹介しています。それによると、道内の雪の降り方には三種類あるそうです。①低気圧通過に伴って降る「低気圧域内型」。②「山雪型」。低気圧通過後、西高東低の気圧配置となり、北西の季節風が吹く。この風が日本海側の山間部に多量の雪を降らせ、平野でも長時間、雪が降る。③「里雪型」。西高東低の気圧配置が緩みかけると、日本海上に小さな雲の渦(小低気圧)ができる。これが海岸地方に短時間で大量の雪を降らせる。札幌では「石狩湾小低気圧」と呼ばれているものだそうです。
 これに対して、除雪のほうはどうでしょう。同紙の「除雪の歴史」の項目に次のようにあります。
 「札幌市の予算に初めて除雪費が計上されたのは1903年(明治36年)。その額は150円。現在は約150億円だから、貨幣価値を無視すると、ちょうど100年で1億倍になった計算。機械除雪は戦後、アメリカの進駐軍から借りたのが始まりだ。65年には定山渓に温泉熱を利用したロードヒーティングを設置。94年から一部の地区で、曜日を決め生活道路の除雪をする計画除雪が試行中だ。2000年に10カ年の市雪対策基本計画を制定。現在は、市内を39ゾーンに分けて除雪している。」
 すごい血税が投入されていることがわかります。19日の北海道新聞には「土下座してでも車を集めろ!」と札幌圏の除排雪業者のダンプカー争奪戦が激化しているとの記事も載っています。本道は公共事業が削減され、建設業者が減っており、ダンプカーも減っている。その影響が除排雪にも出ているというから、大変です。
 さて、札幌圏は「都市化でヒートアイランド現象が起き、この百年で二度ほど気温が上昇しました。今後、さらに湿った重たい雪が降る可能性があります」と、播磨屋さんは指摘しています。除雪の問題は高度な公共性の問題であると同時に、地域の共同性の問題でもあるように思われます。雪かきをしているのは高齢者というイメージが私には結構あります。もっと、地域の力で取り組まねばならない要素も少なくありません。
(2006.01.20)

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