正岡子規(一八六七〜一九〇二)の近代俳句の提唱により、明治四十年(一九〇七年)ころより、河東碧梧桐の来道もあって北海道の俳句運動も次第に盛んになった。本稿では昭和期の北海道の俳句の歩みを通覧するとともに事項解説を加えて瞥見する。
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昭和前期・戦前戦中〜俳句弾圧と戦時言論統制
中央の俳壇では高浜虚子らの「ホトトギス」に対して、同派の実力者であった水原秋桜子らが離脱し、さらに山口誓子が新風を注ぎ、多様な芸術傾向が連なる新興俳句運動が興った。道内でも高橋貞俊「プリズム」、斎藤三樹雄(のち玄)「壺」などのモダニズム俳句が生まれた。
しかし、日中戦争から広まった国民総動員の統制は新興俳句運動を治安維持法で弾圧し、 一方で作家は文学報国会による戦争翼賛へと動員され、自由な俳句誌はすべて姿を消す暗い時代となった。
【事項】
石田雨圃子「木の芽」(のち「石狩」)と札幌俳壇の充実 高浜虚子の影響を受けた石田雨圃子はホトトギス系俳誌「木の芽」を創刊(昭和四年)、北日本俳句大会(昭和八年)には全国の有力俳人が来道、多くの聴衆に感銘を与えホトトギスの裾野を広げた。一方、帝室林野局支局内「熊笹会」北辰病院「ポプラ会」、拓銀本店「ダリヤ吟社」、琴似療養所「つつじ吟社」などが相次いで誕生し、札幌の俳壇は大きく発展することとなった。
一方、ホトトギス系でもあった天野宗軒は昭和七年に水島涛子らと札幌で「水声会」を結成(昭和九年、俳誌「水声」創刊)、伝統を重んじつつも新境地を求める姿勢は新興俳句に連なるものがあった。
郷土派系では牛島滕六が満州に去った後、俳誌「時雨」は長谷部虎杖子らにより受け継がれ「葦牙(あしかび)」(昭和十二年)として刊行されている。
戦禍の拡大する昭和十七年、全道各派が参加して北海道俳句作家協会が結成され、石田雨圃子が会長に、青木郭公が顧問となった。また翌年には「北海道文学報国会」の結成があり、俳句作家協会も参加し、戦傷病者慰問や戦勝を祈念する俳句大会などを行った。しかし、昭和十九年、言論の自由は奪われ、雑誌統制令により各俳句誌は休廃刊に追い込まれた。
新興俳句と「京大俳句」事件と北海道 「ホトトギス」の花鳥諷詠に対する革新派として、昭和に入ると全国で新興俳句運動が巻き起こった。知的で先鋭な「京大俳句」は昭和八年、京大三高俳句会によって創刊され、広く門戸を開いてからは西東三鬼、高屋窓秋、渡辺白泉らが参加した。だが、自由主義を基調とした作風は特高警察によって表現者弾圧の標的とされ、昭和十五年二月から八月にかけ治安維持法違反で西東三鬼ら十五人が検挙されるに至った。新興俳句弾圧はその後も暴虐を極め、「広場」(細谷源二が参加)「土上」「日本俳句」「俳句生活」など広範な俳句人に及び、結果的に休刊などで衰退していった。
旭川の高橋貞俊が「プリズム」を創刊したのは新興俳句運動の末期に近い昭和十三年であった。「尚伝統一色に塗りつぶされている本道俳壇トーチカ陣に、新興俳句の爆弾を思うままにまき散らす」と意気軒昂であったものの、活動期間は短かった。
一方、西東三鬼に師事し、やはり北海道における「俳句新興の進展運動」の「開墾者」をめざして昭和十五年に「壺」を創刊したのが斎藤三樹雄(のち玄)であった。しかし、弾圧の影響や玄自身の人間探究派・石田波郷への傾倒もあって、次第に新興俳句的な作風から伝統俳句的な世界の追求へと変わっていき、十九年には休刊してしまう。
戦前までの北海道俳句の困難と課題 北海道俳句協会や北海道文学館の役員として活躍した草皆白影子(一九二五〜七一)は「北海道俳壇百年の展望」(「俳句年鑑」一九六七年版)でこれまでの北海道俳句の歩みを次のように批判的に考察している。
それによると、道内には顕著な活動を示した俳人がいる一方で(彼らが)「日本俳壇史上に全く現れていない」とし、その理由として@北海道の寒冷な自然状景が必ずしも「歳時記」に合致せず、中央に理解されず、またそれを乗り越える説得力の強い作家が現れなかったA北海道の風土に立脚した郷土派の作風は中央との接触が薄かったB新興俳句運動の炎が十分に燃えあがらず、それも伝統派の中に埋没した―と述べている。
一方で、風土に根を下ろした独特の句風は現代俳句の思惟的な先覚者であり、「その重みは千金に値する」とも評価している。四季の移ろいを含め、「内地」(本州以南)の日本的な風景とは異なる北海道俳句の置かれた季語的な困難は変わらず、新しい表現の可能性は未だ途上にあると言えるかもしれない。
学校文芸誌の報国誌化 戦争体制への参加強制は多岐に及び、学校文芸の世界も例外ではなかった。札幌商業学校の文芸誌「札商文藝」は紀元二千六百二(昭和十七)年からは「面目を変え、時局の要請に基き青年學徒の眞髓を吐露せる報国団雑誌」となって「神と征く大津御軍冬の海」「ハワイ撃つ師走八日の明の月」などの句が掲載されるようになった。北海道庁立室蘭工業学校でも「報国団誌」が昭和十八年からは「米英撃滅、皇道宣揚皇軍必勝」をうたい、「山本元帥国葬日に―大いなる國の葬りや青嵐」「戦へる國しづかにも垂穂かな」などの句が見られる。
・戦捷祈念俳句大会(札幌神社、昭和十八年六月) 戦争が激化する中で勝利を祈念して句会が開かれた。北海道俳句作家協会幹部の石田雨圃子、長谷部虎杖子、天野宗軒らが並ぶ。
・「北方文藝」 北海道文藝協会発行の「北方文藝」創刊号(昭和十六年五月)。太平洋戦争直前に誕生し、俳句を含めた北海道内の文学者が結集して「北方の文化」探究を深化させようとしたものの、次第に戦争遂行の時勢に押された。昭和十九年第八号で休刊となり、戦時体制下の寄り合い雑誌「北方圏」へと合併された。
・俳句誌「プリズム」 同誌は昭和十三年四月創刊。高橋貞俊発行で、園田夢蒼花が編集を担当した。新興俳句を標榜し、郷土派、ホトトギス系に対して異彩を放った。無季俳句、連作俳句などを積極的に開拓したものの、同年十月、全四冊を刊行して終わった。
・「緋衣」 昭和十九年五月に大半の俳句誌が休刊・廃刊となったのに抗し、当局に隠れて謄写版刷りで発行された。発行者は後志管内余市町の青木郭公門下の新田汀花と古田冬草の二人。「戦争が苛烈になればなる程、真の俳道精進は益々必要」と宣言している。粘り強く戦中をくぐりぬけたが、若干の休刊を経て二十年十二月に復刊した。「暁雲」「石楠」系の俳人が多く集まったほか新人も加わり有力誌となった。三十五年惜しまれ終刊した。
【人物】
石田雨圃子(いしだ・うほし 一八八四〜一九五二年) 富山県生まれ。本名慶封。早稲田大学卒。旭川慶誠寺第二代住職。ホトトギス系俳誌「木の芽」を昭和四年に創刊、のち「石狩」と改名続刊した。戦後は「古潭」を創刊した。北海道の俳句活動を代表する人物である。句文集に「古潭」。
・木々の雪しづれけむれる古潭かな
荻原井泉水(おぎわら・せいせんすい 一八八四〜一九七六年) 東京生まれ。東京帝国大学文学部卒。新傾向運動の俳句で河東碧梧桐とともに「層雲」(明治四十四年)を創刊する。北海タイムスの選者担当や来道(昭和十六年)(昭和六年)により北海道の自由律俳句に大きな影響を与えた。
・わらやふるゆきつもる
高橋貞俊(たかはし・さだとし 一九一三〜一九九九年) 旭川市生まれ。俳句誌「海賊」「プリズム」「俳句会館」「水輪」「広軌」刊行に関わる。骨太でみずみずしい作風が注目された。句集に「新穀祭」など。
・ほうほうと鴉飛ばしぬ雪地獄
斎藤玄(さいとう・げん 一九一四〜一九八〇年) 函館市生まれ。本名俊彦。早稲田大学商科卒。大学時代に「京大俳句」に入り西東三鬼に師事。銀行勤めをしながら昭和十五年「壺」を創刊した(昭和十九年休刊、二十一年復刊)。石田波郷を知り、俳号を三樹雄から玄にあらためた。個人誌「丹精」を発行した。
・蜩や岩根のザイル巻きて輪に
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