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俳句HAIKU

概説・北海道の昭和俳句2

■□昭和中期・戦後〜俳句誌の百花繚乱と炭鉱俳句・職場俳句の興隆
 終戦とともに北海道の俳句界は桎梏から解放され、多様な活動が一気に花開いた。まずは有力俳誌の「古潭」「葦牙」「暁雲」「壺」「氷下魚」「緋衣」「アカシヤ」「はまなす」「阿寒」などが相次いで復刊・創刊した。一方、新興俳句弾圧に連座しての入獄、米軍空襲下での被災、そして十勝入植など――苛酷な体験を持つ細谷源二は「氷原帯」を創刊、〈はたらく者の俳句〉提唱により、北海道俳句のパイオニアとして大きな影響を与えた。
 新しい文化運動に呼応して、文芸とは縁の薄かった生産拠点である農村や炭鉱や工場などの職場でも多くの俳句が作られるようになった。一方、気鋭の文化人・桑原武夫の俳句「第二芸術論」が発表され、その影響で社会性や純粋性を探究する同人誌が生まれた。

【事項】
 俳句誌の復刊相次ぐ 言論統制の戦争の時代が終わり、戦後的自由を実感する中で、俳句界も次第に復興の時代に歩調を合わせていく。昭和二十年十一月にホトトギス系の「古潭」(石田雨圃子)が復刊の声をあげ、郷土派系も謄写版で時代を切り抜けた余市の「緋衣」(古田冬草、新田汀花)が新生。その後、札幌の「暁雲」(奥村静雨)、「葦牙」(長谷部虎杖子)、「はまなす」(古田一也、水野波陣洞)北見の「阿寒」(唐笠何蝶)、新十津川の「アカシヤ」(土岐錬太郎)、釧路の「えぞにう」(久保洋青)、室蘭の「いぶり」(加藤蛙水子)、函館の「緋蕪」(久村文生、三ツ谷謠村)、旭川の「霧華」(塩野谷秋風)などが各地で続々と復刊・創刊された。少し遅れて帯広の「あきあじ」(井浦徹人)、さらには札幌の「氷下魚」(伊藤凍魚)も復刊し北方俳句の拠点として支持を得た。
 戦後創刊された俳句誌は昭和二十年から二十五年までの五年余に百誌を超えており、戦争で抑えられた表現欲求の爆発を見ることができる。
 
 同人俳句誌の興亡 桑原武夫(一九〇四〜一九八八年)はフランス文学者であるが、戦後の文化活動のオピニオン・リーダーであった。「第二芸術論」(雑誌「世界」発表)は俳句の社会性、結社の持つ広い意味での封建制≠考え直す問題提起となって、大きな影響を与えた。道内でも特定の主宰者・代表者を設けず、純粋に芸術性を追求し、各人が平等な立場で参加しようという同人誌的な俳句誌も若い世代を中心に広がった。
 「青炎」「丹頂」「直線」「車軸」(のち「ガンマー」)「楡派」「礫」「DELTA」「圏」「涯」「象」などが誕生し、昭和三十四年六月には同人誌十誌の参加を得て「北海道俳句同人誌会」も設立された。
 その後も「粒」「広軌」などが名乗りを上げたものの、組織的弱さもあって、多くは昭和三十年代末までに姿を消していった。
 「青炎」はのちに「北方文芸」事務局長として采配を振るう富岡木之介が中心となって刊行された。詩人の鷲巣繁男の名が見られるほか、十代の俊秀として加清蘭子(蘭女)が健筆をふるっていた。加清蘭子は上京し青娥書房をおこす。渡辺淳一『阿寒に果つ』のヒロインのモデル加清純子の姉。

 細谷源二と「氷原帯」 東京に生まれた細谷源二(一九〇六〜一九七〇)は「広場」のメンバー四人とともに昭和十六年二月に逮捕され、二年余の獄中生活を強いられている。そして戦火が拡大する中、昭和二十年には空襲で家財のすべてを失う。やむなく開拓移民団に加わって、十勝豊頃村へ入植したものの、厳しい環境の中で辛酸をなめた。「なんと云うさだめぞ山も木も野分」
 国家権力に翻弄された半生であったが、俳句の可能性を諦めることはなかった。土岐錬太郎や山田緑光らの尽力で昭和二十二年に砂川の東洋高圧に旋盤工として職を得る。そこで「東圧俳句」(昭和二十二年)を主導し、同誌は昭和二十四年には「氷原帯」へと改題発展を遂げる。「はたらく者の俳句」を提唱し、多くの俊秀を育成した。生活派勤労俳句は炭田地帯の労働者の共感を呼んだ。新聞俳壇の選者をも務め、北海道俳句の革新、普及に貢献した不屈の情熱には誰もが頭を垂れざるを得ないだろう。
 細谷源二の第三句集『砂金帯』(昭和二十四年)に収められた一句が「地の涯に倖せありと来しが雪」。泥炭の開拓地で電気もないひどい生活の中で「落葉の夜も、雪の夜も書きつづけた」細谷源二の慟哭と見果てぬロマンチシズムが漂い、多くの人に愛吟された。

 「北方俳句人」と炭鉱俳句 主宰細谷源二、編集委員山田緑光、富岡木之介、川端麟太らにより「北海道俳句作家の集団」誌として昭和二十三年三月に創刊された。「中世的な親方徒弟制度の俳句観を払拭する」ことをめざし、当初は新俳句人連盟北海道支部の機関誌であったが、まもなく同連盟を退会した。
 細谷は当時、北海道の主産業となっていた炭鉱地帯をまわり、労働組合や文学に関心のある人びとに働きかけ、炭鉱俳句の裾野を広げた。産炭地ではヤマをあげての俳句大会が活発に開かれた。都市部の工場などでの俳句サークルづくりも行われた。

 療養所文芸の時代 俳句は「座」の文学である。開拓団や寺社、企業や組合、結社など、人が集う〈共同体〉のあるところに、文芸活動は生まれる。
 戦前から戦後、日本社会では長期間の療養を必要とする結核患者が多く、さらには戦争による傷痍軍人、病に倒れる教員もかなりにのぼり、長期療養者は一時十万人近かった。それらの患者たちの愛好者から、いわば「療養所俳句」活動が育った。傷痍軍人の国立北海道療養所、同第二療養所、旭川、札幌などの陸軍病院、登別、稚内などの海軍病院、札幌、洞爺などの教員療養所などで俳句会やプリント俳句誌などを行っていた。療養者による「北患文芸」も創刊されている。選者には細谷源二、水野波陣洞など有力者が名を連ねた。このうち、札幌・南区にあった第二療養所には飯野遊汀子、菅原虚洞子、小野寺参峰らがおり、放送作家の佐々木逸郎や竹内肇らも活動していた。句会報「ひこばえ」は謄写版印刷ながら百号まで続いた。
 その後、栄養状態の改善や新薬開発、治療技術の向上もあって、これらの施設は徐々に縮小されていき、療養所文芸も衰退していった。

【人物】
 土岐錬太郎(どき・れんたろう、一九二〇〜一九七七) 空知管内新十津川町出身。僧侶。日野草城に師事し、「アカシヤ」を創刊した。知性と抒情の均衡の上に立つ俳風で、新聞俳壇の選者などを務め指導者としても活躍した。
 ・拓農列なす冬日の縞の青深め
 中村還一(なかむら・かんいち 一八九八〜一九七六) 栃木県生まれ。小学校卒業後、工員として働き、「労働運動」(大杉栄)の創刊同人となる。のち運動を離脱し、昭和十七年渡道し、宗谷炭砿専務を経て社長。細谷源二と「氷原帯」の活動を支える。著書に『俳句と人生』『異端の舌』など。
 ・落暉が放けて壮麗なるは水車の火事(色紙)

■□昭和中期・戦後―北海道俳句協会の結成と新聞俳壇
 道内のあらゆる流派の俳句人を結集して昭和三十年に北海道俳句協会が設立された。同会は「北海道句集(俳句年鑑)」の刊行、「北海道歳時記」の編纂、鮫島賞など優秀作家の顕彰などを展開して今日に至っている。
 また、この時期は結社などに縛られない一般の愛好家が新聞俳壇コーナーに作品を寄せるようになり、伊藤凍魚、土岐錬太郎、細谷源二らが選者に起用されるようになった。北海道が命名百年を迎える中で、地域・風土に根ざした作句活動が定着したのもこの頃である。

【事項】
 北海道俳句協会の結成 昭和二十年代に百花斉放のごとく活況を呈した道内俳句界は三十年代に入ると、これまでの結社間の壁を取り払って交流を深めようという気運が高まった。三十年五月には長谷部虎杖子ら五十七人が発起人となって「北海道俳句協会」の募集を開始した。賛同者が八百人を超えたのを機に、八月二十一日に設立総会が開かれた。
 協会は翌三十一年三月「北海道句集」を刊行する。これは「北海道句鑑」(昭和二十四年)以来の規模で、全道会員千人のうち四百人が作品を寄せ、俳句界の現勢展望、俳誌一覧を掲載した充実の内容であった。第四集からは「北海道俳句年鑑」とあらためられ、現在に続いている。
 協会は全道俳句大会の開催、北海道文学館との共催による俳句展の開催などにも力を入れた。
 組織体制は当初は常任委員による集団指導体制で、伊藤彩雪、一乗秀峰、角新草人、粕谷草衣、草皆白影子、鈴木恭三、高橋渓河、古田冬草らが試行錯誤で支えた。
 代表幹事であった鮫島交魚子はその後、初代会長となった。鮫島は昭和五十五年まで協会の基盤づくりに尽力した。会長は名称が代表と変わった時期もあるが、第二代・山岸巨狼、第三代・園田夢蒼花、第四代・木村敏男―と実力者が選ばれている。活動の要である事務局は伊藤彩雪、高橋渓河、一乗秀峰らのほか、金崎葭杖、鈴木光彦、谷口亜岐夫が事務局長を務めた。

 「鮫島賞」と「北海道新聞文学賞」 北海道俳句協会は俳句界の質的向上をめざし、「北海道俳句協会賞」と「鮫島賞」のふたつの顕彰制度を有している。
 先行したのは新人発掘を目的とした北海道俳句協会賞で昭和四十一年に制定された。未発表作品二十句を公募して審査する。一方、鮫島賞は昭和五十五年の制定で、その年に刊行された句集の中から最も優れたものに授与するものだ。
 北海道新聞は北海道文学館の発足と同じ昭和四十二年に「北海道新聞文学賞」を制定した。これは当初、全ジャンルを対象としたものであったが、次第に短歌や俳句の創作活動が活発化してきたことから、昭和六十一年からは「北海道新聞短歌賞」「北海道新聞俳句賞」として独立した。当該の一年間に刊行された最も優れた句集に本賞、準ずるものに佳作が贈られている。
 読者投稿による新聞俳壇は北海道新聞のほか北海タイムス、朝日新聞、読売新聞などでも人気コーナーとして開設され、道内の有力作家が選者を務めている。北海道新聞に対抗して道内ブロック紙としての発展を目指していた北海タイムス(戦前紙ではなく戦後に新たに誕生した新聞)は中央から有力者を呼び読者交流の新年句会などを開催している。

 木村敏男の労作「北海道俳句史」 結社誌刊行とともに作家の句集が相次いで上梓されていく中、北海道の俳句の歩みを総覧する研究書や北方俳句の魅力を再発信する鑑賞書も相次いで発表されるようになった。その代表と言えば、木村敏男の『北海道俳句史』(昭和五十三年、北海道新聞社)である。
 木村敏男は北海道俳句協会の第四代会長を務めているが、大正十二年(一九二三年)旭川市生まれ。高橋貞俊の「水輪」から句作に入り、「広軌」「にれ」で活動した。『北海道俳句史』は通史のほか付表として「北海道物故俳人略伝」「北海道句碑目録」「北海道俳句史年表」「主要参考文献」を掲載している。文中で言及されている俳句人は索引だけで九百人を大きく超えている。
 木村によれば、こうした仕事の前提となる労作としては草皆白影子「北海道俳壇史年表」が挙げられている(「北海道俳句年鑑」巻末にて連載)。
 ほかに、北海道の俳句の歩みを通覧した書籍としては比良暮雪『北海道俳壇史』(昭和二十二年)があり、子規以降およそ半世紀の北海道の俳句事情を系統・結社、俳人、俳句作品にスポットを当てながら紹介している。

 北海道の「歳時記」への挑戦 北海道の俳句の困難と課題は「季語」の問題であることは、本書戦前篇の項で触れている。そうした関心の中で北海道俳句協会設立を受けるように、佐々木丁冬がまず『蝦夷歳時記』第一集「農村の巻」(昭和三十六年)を同会から発行した。「新ジャガ」「ビート貨車」「デントコーン」「サイロ詰め」「薪切り」「タンネ」など今では懐かしい道内の風物を取り上げている。第二集以降第五集までは丁冬の手で発行されている。近藤潤一『北の季寄せ』(平成五年)は自在に「北の季語」をエッセーにまとめている。
 結社系では『葦牙 北方季題選集』(平成二年)、にれ叢書の『北の歳時記』(木村敏男編、平成五年)道俳句会の『北方季語探索の軌道――「水の会」の記録――』(平成二十四年、)地域的なものとしては『樺太歳時記』(菊地滴翠編、昭和五十九年)などがある。結社・主宰者などによる北海道の名句を紹介する本も増えている。

 北海道文学展の開催 昭和四十一年(一九六六年)十月二十五日から三十日まで札幌・丸井今井デパートで北海道ゆかりの文学者が全ジャンルから参加して「北海道文学展」が開かれた。北海道俳句協会は鮫島交魚子会長を先頭に草皆白影子、北光星、伊藤彩雪、亀山昭祐、豊島博男、佐々木丁冬、寺田京子らが実行委員になって総力で参加、新しい資料の発見などを図録にまとめた。この成功を受けて、翌昭和四十二年四月二十二日には北海道文学館が創設された。理事長は更科源蔵、俳句からは前出の鮫島、伊藤、豊島、寺田、亀山、草皆に加え塩野谷秋風、島恒人、山岸巨狼が役員に選出されている。
 
 高浜虚子 最後の来道 高浜虚子は全道ホトトギス俳句大会のために昭和三十三年六月に来道した。虚子は過去五回本道を訪れているが、これが最後であった。翌三十四年四月に八十五歳で亡くなった。

 昭和四十年代の俳句誌の動向 北海道俳句協会結成の後、昭和四十年代に入ると、俳句誌はそれぞれ特色を深めていく。社会性のある俳句を志向する「粒」(山田緑光、砂川)、「広軌」(高橋貞俊、旭川)、富安風生の作風を継ぐ「青女」(新明紫明、旭川)、伊藤凍魚の死(昭和三十八年)の後に旧「氷下魚」系俳人を擁した「北の雲」(勝又木風雨)などはその代表と言える。旭川で多くの後進を育てた藤田旭山「俳海」、同人誌「礫」を発展的に解消し新鋭を揃えた北光星「扉」(現在の「道」)、帯広で井浦徹人を助けて「あきあじ」に関わった中嶋音路「柏林」、やはり十勝で風土を大切にした内山筏杖「樺の芽」なども精力的に活動を続けた。

【コラム】
 女性俳句人の活躍 新聞俳壇の人気に加えて、高度成長による生活のゆとり、生涯学習への関心が高まる中で、俳句教室は新聞社などのカルチャーセンターや公民館での講座として広く親しまれるようになった。これらは中高年層が受講の中心となったが、女性の愛好者・作家育成の大きな力となった。
 寺田京子(一九二二〜一九七六年)は少女期から肺結核で闘病するが、俳句に親しみ天野宗軒の「水声」のほか「水輪」「壺」「寒雷」「杉」にも参加。読売俳壇の選者も務め、戦後北海道の生んだ女流俳人の代表と目された。句集『日の鷹』は昭和四十三年現代俳句協会賞を受賞している。
 高橋笛美は「ホトトギス」で活躍、北海道新聞日曜文芸の俳句選者を務めた。
 榛谷美枝子は「ホトトギス」で俳句に親しみ、句集「雪礫」で「リラ冷えや十字架の墓ひとゝころ」などの句を詠み、渡辺淳一の「リラ冷えの街」で広く知られる北海道の季語を生んだ。

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